検索結果5,728件の前書きと後書きを全部読んだ
敗戦後、様々な本が様々な方法で出版された
戦争で多くの紙が燃えた。印刷所も燃えた。それでも本を出版する人がいた。
一部だけ残った校正刷をもとに何とか出版できたという著者がいた。田舎に疎開させていた紙型を使い、再印刷した本があった。
戦時中に野田宇太郎は、木下杢太郎から原稿を託された。原稿とともに疎開先を転々とし、時には人に預け、なんとか戦災から守りきった。敗戦を迎え社会が混乱する中でなんとか出版に漕ぎ着けたものの、木下はすでに世を去っていた。
森下友次郎は、労働運動パンフレットの作成を依頼されたが、戦災で資料を焼失していた。運動の中心人物であった石塚に協力を依頼したが、彼の資料も燃え果てていた。やむを得ず森下は、記憶をたどりながら「遞信勞働運動の概要」を書き上げた。
このように、燃え残りの本があり、新しく刷られた本があった。
学校の帰り道、古雑誌を貪るように読み歩きする子供がいた。焼跡の崩れた石段に腰かけ、大人の雑誌を並んで読む子供たちがいた。武田幸一は満員電車の中で、表紙の焦げた童話の本を大切そうに抱える子供を見た。武田は子供たちのため「貝殻と船の灯」を書き上げた。
山川智應は怒っていた。明治の三十年あたりの新聞雑誌には「寄書欄」があり、筆者の身分や立場を問わず良い原稿を掲載していた。正しい意見が尊重される『言論自由の世』であった。ところが今では山川に話を聞きに来る者などいない。まことに『言論不自由』の時代になったものだ……と愚痴りながら『天皇制廃止論種々性相批判問答』を書き上げて自費出版した。
敵性語を教える奴だと冷遇されていた岡本春三は、これからは英語の時代だと大喜びだった。戦前のような能率の悪い英語教育は止めなくてはならない。進駐軍関係の仕事で、学校英語がどれだけ役に立っているのか、英文の報告書一枚も書けないではないか。岡本は奔走し、戦前に出した「英語商業通信文入門」を復刊させた。そして次世代の商業界を担う人材のために、同志社商業高等学校の校長を勤めつつ、次作の構想を練り始めた。
敗戦後、様々な本が様々な方法と理由で出版された。私はこれらの本の前書きと後書きを、全部読むことにした。
前書きと後書きを全部読む
私が読んだのは、国立国会図書館デジタルコレクションに収録されている1945/06/01-1946/09/30に出版された出版物(図書)である。当初は検索結果は6,037件あったが、途中で「入手可能性調査」が実施された。これによって入手可能なデータが除外されたため、登録数は5,728件に減った。減ったことは残念だが、とりあえず全てを読んだ。
検索対象が8月からでなく6月からなのは、敗戦後の混乱によるトラブル、登録ミス等を考慮に入れたためだ。以前に類似の調査をした際に得たバッドノウハウで、一種のオマジナイのようなものだといえる。
調査は2026年2月17日に始まり5月12日に終わった。85日間のうち作業日は82日で、NDLデジタルコレクションで閲覧したページ数は141,841ページであった。そのうちで記録に値すると判断しメモを残したのが892件、採録率は0.63%で159ページをめくって1件という割合だった。最も多くページをめくった日は5月11日で1万346ページ、その日のメモは31件(採録率0.30%)だった。
この活動の始まりは、ちょっとしたことだった。
m## 日本は侵略戦争を本当に反省していないのか?
私は色々なものを読むため、たまに以下のような発言を目にすることがある。
- 日本はアジア諸国への植民地支配と侵略戦争に対する反省がない
- ドイツはナチスの過去と徹底的に向き合ったのに、日本は未だに侵略戦争の反省すらできていない
- 学校で植民地支配の実態をちゃんと教えないから、若い世代は加害の歴史を知らない
こういった発言に対し「いつまで反省すればいいんだ!」といった反論が出るわけだが、個人的な感想は、え?反省はしたでしょ?というものであった。
先にも書いた通り、私は色々なものを読む。だから植民地支配を、ものすごい勢いで反省している文章をいくつも読んだことがある。そのため「え? 反省したと思うけど……」という反応になる。
あとは知識人なら、普通に反省するに決まっているという直感もあった。まともな知能を持っているのであれば、「我々は深く傷ついた。しかし酷いことをした。止められなかった……」となるのが自然だ。
また事実として日本は敗戦から復興を成し遂げている。そこに至るには、惨禍に対する分析と反省が必須である。反省していないわけがないというのが私の見立てであった。
もうひとつ、反省していないという人の発言は基本的に紋切り型だ。彼らは資料を読み込んでないのではないか……という素朴な疑問もあった。しかし私もその分野のものを、それほど読んでいるわけではない。だから評価ができない。
色々書いたが、これらは全て主観でしかない。いずれ確かめてみなくてはなと考えていたのだが、ようやく『いずれ』が来たので『前書きと後書きを全部読み』確かめることにした。
敗戦直後には、本当に反省していなかった
先に結論を書いておくと、敗戦直後の日本人は、戦争の加害責任を感じてなかったようだ。断定しないのは、私が読んでいない資料が大量にあるからだ。
もちろん前書き・後書きという縛りをなくし、反省しているように見えるデータを集め、切り貼りすれば、反省しているように仕立て上げることは簡単にできる。
例えば共産主義・左翼系の書籍では、軍部・政府への悪口が多く登場する。中国・ソ連への期待を背景に、反省に見えるような文章が多く書かれた。さらにいうと、政府や軍部への批判の材料として、植民地は積極的に利用されている。ただしこれが反省なのかというと、少し違う。あくまでこれは「日本の軍国主義」への批判だ。植民地支配を反省しているわけではない。
実例も挙げておこう。国立国会図書館デジタルコレクションで1945/06/01-1946/09/30に出版された書籍と雑誌から "侵略 反省" を含むものを検索すると90件あり、下記のような文章を抽出できる。
そして第二次世界大戦に際しては、日本の作家の大多数は侵略戦争に協力させられることに対して明かな抵抗を示さなかつたばかりか、積極的に協力する者が多かつたほど、混乱し、盲目的となり、良心を失ひ、または良心を傷つけたのである。
これは日本の半ば封建的な軍国主義的政治の圧制がいかに甚だしいものであつたかを語るとともに、ごく少数の優れた作家を除くわれわれ大多数の作家がいかに無力で、またその思想の根柢が浅かつたかを曝露したものとして、深い反省を必要とすることだ。民主主義の諸問題 堀真琴, 樺俊雄 愛育社 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
私は敗戦国民の一人として、といふより侵略国民の一人としてあなた方の中国に深く謝し乍らさらに反省を深くすると共に、いつの日か中国との交流が許される日まで、かつての張家口でのひとときを記憶してゐてもらへるならば私の演劇人としての喜びこれに過ぎたるものなく、また一には民主化日本の演劇のため働いてゆくべく恙なく祖国の山河を見る事が出来得た喜びを中国のその寬大さに感謝しつつ一にはあなた方の示された演劇的熱情と謙虚さとに対し胸せまる思ひを以て敬慕しかついつの日か中日演劇人の交流を深く夢みて止まず、且つその為めのわれわれ演劇人としての努力を誓つてもらへたらまことに私は幸福だと思ふ。
日本演劇 4(5);6月號 日本演劇社 日本演劇社 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
このように確かに反省はしているのだが、個人的な感想を書かせてもらうのであれば、正直なところ少し目が滑る。他人の反省の真偽など分かるはずはないのだが、私がそう思ったことは事実である。
公平を期すために、目の滑らない文章も紹介しておこう。航空エンジンの研究者だった富塚清は、岸田國士らの論集『敗戰の倫理』に、このようなことを書いている。
率直に云へば掠奪であり、官物の横領であり、極端なる利己主義であり、更にまた無慙な文化の破壊が国民の眼の前で白昼公然と行はれた。
先達て新聞にも出て居たが、東京、横浜、広島などの戦災の惨憺ぶりを眼の前にして、向ふの記者を詰つたところ、『いや東京など問題ではない。マニラを見ろと申し上げたい』と逆ねぢを食つたと書いてあつた。恐らく敏感な者なら、何か裏に一物ある言葉である事位はすぐ読みとる事が出来る。聞けば、かなりのやらずもがなの事をやつたらしいのである。敗戰の倫理 岸田國士 靜話會出版部 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
まさに掠奪と文化破壊という加害に触れた文章である。ただし注意も必要だ。この文章に付けられた題は「非文化非合理への反省」で、掠奪も破壊も非合理の問題として処理されている。富塚は戦時中ですら日本の不合理性を痛烈に批判した男で、反省というよりも継承だとすることもできよう。
このような資料を色々読んだ結果、私は「反省はなかったような気がするな」という結論に至った。『敗戦を経て日本人は、深く侵略戦争を反省した……』これは現代の倫理観に合致し、多くの人が「そうであってほしい」と願う美しいストーリーだろう。私もそれを期待していた。
しかし現実は厳しい。もう一度書くが、敗戦直後の日本人は、植民地支配を反省などしてはいなかったらしい。これが私の出した結論だ。
さらに年代の範囲を拡げれば、植民地支配や侵略戦争を反省している文章はいくらでもでてくる。今は失われた感覚だが、ある時期まで、いかに戦争を反省するのかが、競われていたことがある。反省の記述は、大量にあるのが当然だ。そして時間がたてば、個人の記憶は無意識のうちに改竄される。世論は固定化され、人は他者から望まれる発言をするようになる。
これらの文章を根拠にして美しい物語を創出し、「日本はアジア諸国への植民地支配と侵略戦争に対する反省がない」と言う人に「反省してます。あなたが無知なだけです」ということは簡単だ。しかしそれは私のしたいことではない。
それではこれから長い時間をかけて、なにを提示していくのかというと、敗戦すると人はなにを思い、なにをするのか、それがどう復興につながったのかということである。ないものはないのだから諦めて、私は別のことをすることにしたのである。
そして反省については、個別のものとしてとらえなおし、一応の結論のようなものは出した。
なぜ前書きと後書きなのか
私は前書きと後書きには、本音が出ている可能性が高いという思い込みを持っている。
書籍の本文は、通常なんらかの目的をもって執筆される。しかし前書きや後書きの多くは、今から書くぞ、仕事が終わってやれやれだ……という気持で書かれている。つまり平時とは書き手の気分が違う。だから普通の感情、隠していた気持が出てくるはずだという仮説を立てた。実例として容量分析の技術書の前書きを紹介しよう。
昭和16年12月8日始められた対連合軍戦争は、昭和20年8月15日我が国の無条件降伏により惨たる終末を告げた。夫は決して夢ではなく冷厳なる事実であり、いやます国歩艱難は此の日よりはじまる。あゝ、此の日を境として我々の誇り来つた祖国日本は其の世界的地位を喪失したのである。
惟ふに戦の起るは起るの日に起るにあらず、戦に敗るゝも亦敗るゝの日に敗れるのではない。我々は此等の由来するところを深く究明し、其の敎訓をもつて祖国再建の礎石となし断じて禍を転じて福となさねばならぬ。基礎容量分析法 石橋雅義 冨山房 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
『基礎容量分析法』の前書きに、このような文章を書く必要はない。それでも石橋雅義は、書かずにはいられなかったのである。
この思い込みを根拠にして私は前書きと後書きを延々と読み進めたのだが、この手法にはいくつもの問題があることも認識していた。
そもそもの話であるが、前書きと後書きに普通の感情、隠していた気持が出るというのは、私の思い付きだ。科学的な根拠はない。
もうひとつは検閲だ。当時の書籍は GHQ の検閲を前提にして書かれている。それだけでなく敗戦直後には、なんとか責任を回避しようとする空気感があった。立場を守るための嘘を書く人がいて、戦争に協力した責任を逃れるため、自己弁護に勤しむ人がいた。民主主義的発展を表看板にした団体の発起人になり、責任を回避する者もいれば、攻撃される前に反撃できなさそうな人物を盛んに攻撃する者もいた。前書きや後書きに、私は戦前から正しかったのだと主張する人が多いのは、このような雰囲気が原因だ。雰囲気に文章は大きく影響されてしまうのである。
検閲関連では、面白いことがひとつあった。国立国会図書館デジタルコレクションに、検閲関係の原資料プランゲ文庫が含まれており、出版時には削除された文字を読むことができたのである。その結果、占領側がなにを嫌がったのかは分ったが、これは今回の調査にはあまり関係がない。
そして敗戦直後に出版可能な人間というのは、世間的には少数派で、かなり恵まれた環境にいることが多い。そのような人物による発言ということは、考慮に入れておかなくてはならない。
このように前書きと後書きに本音が出ているというのは、危うい推論でしかない。この程度の薄い根拠で今回の規模の調査を行うことは、これまでなら不可能だった。紙資料でやるとすれば、どんなに早く見積っても10年はかかる。図書館としては迷惑な利用者のはずで、緩やかな出禁になるはずだ。そもそもだが、この行為になんの意味もない可能性も十分にある。というわけで、こんなことをする馬鹿は存在しなかった。
ただし私が扱うのは、紙資料ではなくデジタルライブラリーである。アクセスして読めばいい。技術が発達した今だからできる遊びだといえよう。
この調査を通じて私が知りたかったのは、敗戦の時点で反省したのかという点だ。敗戦の時点で正しく反省できているのであれば、出発点は誤っていない。それから数十年、反省は深化を遂げているはずだという理屈である。それを知るために、敗戦一年以内に出版された書籍の前書きと後書きから反省の記述を探そうとしたわけだが、結果は先述した通りである。
どのように調査をしたのか
遊びとはいえ処理する数が6000近くあるため、準備が必要だった。
まずはフラットに過去を見るためのトレーニングとして、下記のものを作った。
大きな出来事の、となり年表に載る出来事の隣で、人間が何をしていたか。私が好む行動は、明治35年から大正12年あたりの頭のおかしい人間によるものなのだが、今回は幅広い人間の行動を収集した。縛りは日本語で書かれていることと、なんとなく昔というくらいで、各時代に生きていた広い階層に属する人間の行動を調べた。このトレーニングの効果はあり、多少はフラットに過去を見ることができるようになった。
副次的な効果として AI に関するスキルの向上があった。365日分の出来事を集めるのは予想以上に困難で、ツールが必要となり AI の使い方を覚えざるを得なかったのである。全部読むプロジェクトでも、AIは大いに役立った。
さらに予想外の効果が二つあった。ひとつは、この作業を通じて私の価値観が弱体化したことである。人間は色々な時代に色々な場所で色々なことをするわけだが、結論としては色々な人間がいるということになる。この色々な人間の行動を集めるのは、思ったよりも大変だった。色々に対して価値判断を下していると、出来事を一年分収集できないので、色々と認識しながらも、価値判断をせずひたすら収集するということになった。これで私の価値観は弱くなった。
前書きと後書きの調査では、出版日時が早い本から順番に読んでいく。戦争に言及のある文章があれば、メモとして記録する。記録するかどうか、根底にある選択基準は「本音が出ているかどうか」あるいは「好きかどうか」である。ここで私の価値観が出てしまうわけだが、トレーニングによって価値観を弱体化させておいたことで、これまでならば取るに足りない、あるいは嫌悪感から記録しなかったであろう記述も記録することができた。
もうひとつの効果は、嘘が分かるようになったことである。嘘は出来事ではない。だから嘘の出来事は弾く必要がある。この作業を続けることで、嘘か本当かを判断するセンサーのようなものが鍛えられた。これを言語化するのは難しい。ただ分かるようになったとしか言い様がない。この能力は重要で、私が収集したい前書き・後書きは、その時代に人間が本当に考えたことである。イデオロギーや立場から要請され書かれたもの……つまり嘘……は記録したくない。
しなかったことも書いておこう。6000冊分の前半5ページ、後半5ページから文字データを抽出し、テキストマイニング的な分析にかけるというようなことはしなかった。意味がないからだ。これで出るのは単なる数字でしかない。そして反省を主軸に置いて分析すれば、反省をしていたという結果が出るはずだ。私がしたいのは、そういうことではないのである。
機械に読ませなかったもうひとつの理由は、異常なことを書く人間は、異常なことをすると私が知っているからである。今回の調査では、明記はされていないが後半10ページが全体的にみると後書きというようなケースや、軽い前書きはあるが第一章の前半が実質的な前書きといった事例があった。これは人間が確認しなくては分からず、記録すべき記述なのである。
以上を要約すると、価値観を弱体化させ、フラットに過去を見ながら、嘘を弾きつつ収集したのが、このデータということになるわけだが、これまた私の主観でしかない。
最初から最後まで主観しかないのも寂しいので、客観的な分析も掲載しておくが、このデータは、私の主観が強く反映されたものである。結局のところ主観なしにこのデータを扱うことはできないのである。
彼らはなにを考えて復興へと向ったのか
私がデータを収集して思ったことは単純で、『敗戦を前にして、人々は目の前の問題と対峙しながら、我々は民主主義と科学で国を立て直すと決め、子供達に思いを託した。そして日本は復興した』ということだった。
前書きと後書きには、喪失と恐怖、奇妙な明るさ、そして解放感があった。
悲しみ
戦争で失われたものは多かった。
私的な事に渡るが、広島の原子爆弾の影響が残つて約一年病床にゐた唯一人の兄が、これも爆撃で死んだ嫂の跡を追う如く、この稿を執筆中に永眠した。骨を抱いて故国にかへり、暫時筆を止めてゐた後、再び書き継いだのであるが、えたいの知れない悲しみと憤りとが胸裏に蟠まり、或ひは論調を激乱せしめてはゐまいだらうかと案じてゐる。
この拙い小論を、兄と嫂とのみ霊に捧げまつる。生産管理論 沼田稲次郎 日本科學社 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
「白狼星」は、たしか大正八年頃の「婦人公論」に書いたものだ。支那の古い小説から採つたもので、去年十歳で死んだ私の朝江がこの作を非常に愛読してゐた。何度読み返したか解らない。だが、子供には、どうもむづかしいので、こんど全部書き直した。幼くして死んだいとし児の記念のために、この一篇を巻尾に附け加へた次第である。朝江が生きてゐて読んだら、どんなに歓ぶだらうと思ふと、また新しい悲しみが耐られないほど胸を打つ。
太平洋漂流記 : 二葉文庫 (少国民版) 江口喚 二葉書店 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
これらの記述は戦争でなにかを失った人がいて、その人が悲しかったという事実である。敗戦直後の書籍の前書きや後書きには、このような内容が当たり前のように登場するのである。慣れないうちはギョッとしてしまうのだが、いわゆる知識人の中にも喪失を感じた人は多かった。この戦争では、悲劇は平等に起きたのだとも言える。
高橋武児は、子供向けの冒険童話を、我が子と幼い子供に捧げた。
この稿を
逝きし、最愛なる源治と、
この太平洋戦争の犠牲となつた、可憐なる幼きいくたの御霊に捧ぐージャストン旅行記 : 冒険童話 高橋武児 信濃郷土誌出版社 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
獄中で死んだ者を思う者もいた。経済学者の大内兵衛と仲間たちは、戦前の仲間を思い出してものを書き、研究書を編纂した。
座談会をやつてゐる時、故大森義太郎君や、故南二郎君のことがいく度となく話に出た。「大森君がいたら愉快だつたらうね。大森君はこんな時何んといつたらうね」といふ風にである。(中略)両君も私達も昭和十二十三年のいはゆる人民戦線事件に連坐したのであるが、日頃から弱かつた両君の肉体は取調がすむまで持ち切れず、一審の決定をも見ないで、あえなくなったのである。私達は、今日の時世とその常時とを比べて感慨なくはないのであるが、特に両君のことを思い、遺された家族の方々のことを思ふ度に、深い悲しみと、何ものかに対する強い憎しみを感じないわけには行かないのである。
日本インフレーションの研究 大内, 兵衛, 1888-1980 黄土社 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
死んだ息子の意志を継ぐ者もいた。
本書を戦歿せる長男の霊前に捧ぐ
あとがき
本書にをさめた訳文は、私の長男滋が命に依つて従軍し、南方に向け出発する以前に成つたものである。訳者滋は昭和十七年六月一日に宇品港を出帆の輸送船で内地を離れた。フィリッピンのダバオに乗在すること約一ケ月、次いで昭南に移つた。彼地にあつて軍務に従事してゐた。昭和十八年十月十五日、或る突発的事故のために、昭南に近いポートディクソンに於て戦没したのである。
本書の訳稿は訳者が内地に在つた時、既に推敲を終り出版の機を待つてゐたものであつたが、印刷用紙の不足其他の理由で出版を見なかつた。訳者は己の苦心の翻訳が世に出るのを見ないで亡くなつてしまつたのである。私は訳者の父として、本書を出してやることが亡き訳者に対する義務であり、また良き翻訳を世に送ることは読書子に対する義務であると考へて、茲に印刷に附することになつたのである。
本書の出版に就て建設社社長坂上真一郎氏に諮つたところ、氏は本書の出版を快諾されたのである。訳者もさだめし地下に喜んで居ることゝ思ふ。
昭和二十一年四月岐阜県可児郡春里村の仮寓にて秋田玄務晩い初恋 Maupassant, Guy de, 1850-1893 秋田, 滋, 1908-1943 建設社 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
このように前書きと後書きで、受けた被害と戦争の悲惨さが語られている。秋田玄務はフランス語の優れた教師で、戦時中は陸軍で教鞭をとっていた。厳密にいえば戦争に加担し、利益を得ていた人間だということになる。
日本の平和教育では、基本的に戦争の悲惨さと、侵略戦争への加害が教えられる。ただし、振れ幅がある。加害性が強調されると、被害者としての側面を取り上げる人が出る。被害者としての悲劇が強調されることに疑問を持った人は、戦争の加害者としての側面を強調する。「植民地支配への反省がない」といった言説は、この振れ幅の中で生れたのだろう。
加害性を強調する人々にとっては、秋田のケースは批判の対象ということになるのだが、加害と被害、どちらが強調されるのかは、時代によってまちまちで、そこに普遍性などない。そして秋田が陸軍で教えたことと、息子を失った悲しみが同居していることは、ただの事実だ。
悲しみの中で、前書きと後書きに強く出ないものがある。虚脱である。信じていたものは崩れ去り、多くのものを失った。敗戦時、多くの人に虚脱感があった。これもまた当たり前の話だ。しかしこの時期に印刷物を出すためには、気合と気力が必要だった。虚脱している人に、それはできない。不安や悲しみを抱きながら、未来への望みを持つ人々が、ものを書き印刷をしたのである。
国土が狭くなったことへの恐怖
敗戦によって、領土が狭くなったことへの恐怖は大きかったようだ。
資源貧弱で、しかも国土狭小、八千万もの稠密な人々を養はねばならぬ敗戦日本
エヂソン物語 久米, 眞 星書房 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
領土もまた、失ったもののひとつであった。この狭い国土で、どのように食糧を作れば良いのかと、多くの者が苦悩した。彼らは不安だった。
この不安は戦前から接続されたものだ。日本ではマルサスの人口論が広く普及していた。狭い国土に対する恐怖は、戦争へと向った一因でもあった。敗戦で不安が帰ってきた。
この不安に、増産と根性で対処しようとした者がいた。
我が国は敗戦の結果、我が全人口が狭い本土、本州、四国、九州、北海道の四島に追ひ込まれ、此の本土を耕作して食つて行かねばならなくなつた、政府や当局に幾ら配給の増額を要望しても無い袖は振れぬのである。
不平、不満を言ふ暇があつたら、一粒の米でも麦でも、一片の野菜でも作ることだ。
山でも野でも道路でも耕して生きて行かねばならぬ、南海の孤島に餓死して白骨と化しで行つた将士の事を思へばやれぬことはない。家庭食糧の自給農園十二ケ月 江幡, 仲衛 博文堂書店 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
この本の巻末広告がなかなか面白い。
ひとつは『栄養失調を補足せる 食品分析栄養価計算早見表 地方に自生する救荒植物一覧』で、効率的科学的に栄養を取得しようという内容だ。救荒植物とは農作物が凶作の際に山野に自生する食べられる植物である。『家庭食糧の自給農園十二ケ月』では、肥料について書かれており、根性に加えて科学で食糧不足を乗り切ろうという意志が感じられる。もうひとつ、『中等学校全国入学試験問題模範精解』の広告が出ている。敗戦直後、空腹に耐えながらも、受験のことを考える子供たちがいたという証左であろう。
老人はどうか。八十年を生きた華族の昆虫学者は、国土の縮小を嘆き、若者たちの悲しみを思った。
回顧すれば私の八十余年の生涯の間、世の変遷を眼の当り見聞して来たのであるが、昭和二十年八月十五日の無条件降伏の御大詔は私の心をして再び明治初年の小日本に逆戻りした事を感じさせて、感慨無量と云ふより外はない。この自叙伝の起草された時は戦争は陸海軍を信頼し、施政は官僚を信頼し、他日南洋熱帯の大型標本等の調査に使用するチェッコ七、八号の昆虫針を使用する時期も来ることを、希望を以て楽しんで居たのに、今は東洋区の種は一つも手にする権利も無くなった。前途洋々たる青年有為の諸君もさぞや残念に思はれよう。
鶯嶺仙話 高千穂, 宣麿, 1865-1950 九州帝国大学附属彦山生物学研究所 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
戦争に対する反省は清々しいまでに皆無であり、領土を喪失したことで使えなくなってしまったチェコスロバキア製の昆虫針を思い悲しむというのもすごい。いわゆる学者馬鹿といったところだが、高千穂のバックグラウンドを知ると少し見方が変わってくる。彼は養子入りしたため、大学で博物学を修める道を絶たれた。そして「科学一等国」の夢を、次代に託した。戦前に若手動物学者にポストを与えるため国立研究機関の設立を訴え、戦時中は若者の来訪を歓迎し、研究所をふらりと訪れては彼らが育つのを見守った。残念なことに「科学一等国」の夢はかなわず、日本は「四等国」になってしまった。
土地と資源を失った人々の中に、高千穂と同じくこれから来る人々に、希望を見出した者がいた。
日本は天然資源に非常に乏しい上に、国土が狭くなった今日、人民の技術能力が唯一の資産であつて、再建日本の基礎はこゝにあると思ふ。そこで、それの育成は最も重要な問題である。
日本の新建設勞働者敎育 桐原葆見 勞働科學研究所大阪支所勞研旬報局 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
彼らの不安は、人を育てる教育熱に直結した。後述する科学立国と子供への期待に接続する気持である。
日本を復興するのは人間である。領土は狭くなり、占領されて日本は四等国になったが、だからこそ誇りを捨ててはならないと語る人がいた。
私は今日の日本人が自ら四等国民らしい行動をし、日本人としての矜持すてゝゐる事を恐ろしゝ感じてゐる者の一人である。今日位昏迷と混乱に閉ざれてゐる時はないのであつて、一道の光明すら認められない、即ち日々の食にさへ事欠く張迫った窮迫である。であるから我国くらゐ光を必要とする国はないであらう。闇黒の中に生活してゐる者は光を求めるのは当然であつて、併し光明が与へられない我々は余りにも佗しい現実な訳である。
経済的にも思想的にも将又あらゆる方面に於ても日本はたしかに危機寸前である。私は全く誰が日本をかくの如き崩壊一歩手前にまで転落さしたかを強調したいが、併し如何に力説した処で過去の日本は二度と到来しないのである。
全日本人諸君我々の周囲は闇黒であるが、我々日本人の精神は飽くまでも明るい気持をもつて頂きたいと思ふ。勿論諸種の原因で明朗になれないだらうが、併し現実問題として先づ以て真の人間の姿になれなかつたなら、日本の再建は不可能であり、旁々日本的民主主義も確立しないのだ。全日本人が、祖国日本を愛する気持は誰しも変らないのであつて、今こそ日本人としての真の姿にかへらなければならない。日本的な民主主義 櫛野, 種一 山口兄弟工業所 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
この文章は敗戦時の社会を、分かりやすい形で見せてくれる。敗戦の原因を探ったところで仕方がないといった捨て鉢的な態度、今は暗い時代だが希望を持って明るくいこうじゃないかといった、ある種の能天気さである。
能天気
敗戦には悲しみが確かにあった。その一方で、こいつ何も考えてないんじゃないのか……というような妙な明るさがあった。
青年よ!その名は美しき人生の花なり
御身は果してよき實を結ぶや
天地の春はめぐり來るとも
人生の春は再び來らず
靑春刹那の道・書きつぶしを許さず
青年よ、その名は美しき人生の花なり
學ぶも遊ぶも時は遂にかへらず
花は散る、何を收獲すべきや
矢の如し光陰、春! 夏! 秋!
靑春よ、御身の裝ひを高くせよ。結婚難問題 石丸梧平 泉書房 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
この明るさは謎で、自棄糞になっている、あるいは単純に馬鹿である可能性は高いが、よく分からない。少し違ったタイプのはしゃぎかたをしているのが、コント作家の武野藤介だ。
八・一五の戦争終結の大詔を拝した瞬間、日本国民の恐らく九〇%はこの敗戦を信じ得べからざるものと思つた。在り得べからざるものと思つたらう。
(中略)
それ等の国民九〇%を除いた残余の一〇%は逸早く「敗戦」の「事実」を確認して「その後に来るもの」を正しく予想してゐた。醜き周章狼狽もしなかつた。「来るべきもの」の法に到来せるを知つたのである。「神風」の吹かなかつたことを少しも不思議と考へなかつたのである。その一〇%とは何者か。
(中略)
その一〇%とは、余人に非ず、文化人であつたのだ。文化人のなかでも特に文学者であつたのだ。「便乗」や「お茶坊主」の輩は論外ながら、少なくとも、書斎人たる文学者。それから科学者。更に極めて少数の宗教家。これ等がこの一〇%のなかに含まれてゐた国民ではなかつたか。
(中略)
最後に一言、マックアーサー元帥にも語を寄せておきたい。日本の俚諺に「急いでは事を仕損ずる」といふのがある。我々はポツダム宣言に窺知し得られる民主主義的なものこそ、敗戦日本が今、進むべきまことの「幸福の道」であることを知つてゐる。然しながら日本人はこれを自己のものとなすべむ智的訓練に欠如してゐる。急いではならないのである。乞食に馬を与へるやうなことであつてはならないからである。人生談義 武野, 藤介, 1899-1966 洋々社 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
武野は戦時中も東京に踏み止まり、時局的な作品を発表しながらも、密かにコントを書きためており、「人生談義」はそれをまとめたものだ。戦後は艶笑小説に力を入れたというような人が、俺は「その後に来るもの」を正しく予想していた10%だと宣言した上で、マックアーサー元帥にアドバイスをしているわけだが、はしゃいでいない普段の武野ならこんなことはしないのではないか?
能天気で勢いのある人は多くいた。
魂をゆする世界のメロディー、聞け聞けデモクラシーの歌!武装なき文化世界の顕現!吾等は、暗い過去の生活と、苦しき思い出を一擲して、高らかに歩調を合はせ、いざ共に謳おふではないか? 明るい新日本の建設と希望をーー
若い生態 竹久晴美 若い世界社 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
さあ平和日本の建設だ!国際日本の発足だ!一人余さず手をとつて!
卓絶せる政黨首領理想的民本政治家原敬 小谷節夫 日支問題研究會出版部 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
一切の批判性がない上に、いくらなんでもテンションが上がりすぎだが、さらに上を行く者もいて、逃亡しながら希望を語ったのが内田虎之助だ。
新らしい平和日本建設のための手は、既にさしのべられてゐるのです。私たち日本人は陛下と聯合軍司令部から与へられた「自由」をいまこそ日本民族の名誉にかけてもつとも正しく成長せしめることに全力を傾注する義務を負ふてゐるのであります。その義務を完遂することが日本を救ふただ一つの道であり、ポツダム条項を受諾し給ふた陛下の御聖旨に添ひ奉る道であると信じます。
日本は敗れました。しかしそれは悪しき日本が潰滅したのでありました。再び私たちは悪しき力の台頭を日本に許さぬ決意を固めたいと思ふのであります。新しき命へ 内田虎之助 曾田総合文化研究所出版部 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
戦時中に内田は、京城で軍部の仕事を担当していた。なんの仕事をしていたのかは不明だが、敗戦となり旧海軍が残した高級ブランデー百ダース弱を飲みつくしたと自慢をしているので、かなり近い場所で仕事をしていたのであろう。そのため日本に引き揚げた後は、戦争責任を問われることを恐れ、11月に下士官に変装して京都に逃げた。逃げ出すまでに出した書籍がこれで、内田はすでに「自由」なんじゃないのと思ってしまうが、こういった無責任で無反省な明るさは至る所にあった。
明るい趣味の世界
能天気さの反面、日本には復興を語る余裕すらない荒廃も当然あった。
「国破れて山河あり」とは敗戦の悲惨感を簡潔に表現してよく人口に膾炙されてゐる詩句ではあるが、現在の我国の悲惨な状態はこの詩句を以てしては充分に表現されない程のものである。近代科学戦の惨禍は山河にも及んでゐる。山々は焼かれ、多くの河川は破壊されて、国破れて山河すらなき状態である。その上吾々には「国破れて山河あり」などと詠じて、安価な感傷にひたつてゐるやうな余裕はない。国家滄桑の間には古来多くの詩歌が生れたのだが、いまの吾々には詩歌に非惨な敗戦を表現してゐるやうな余裕すらないのだ。こんな詩句を遺すほど余裕のあつた敗戦をむしろうらやむやうな気持である。
國民生活と社會主義 水谷長三郎 山水社 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
水谷は「詩歌に非惨な敗戦を表現してゐるやうな余裕すらない」と嘆いているが、金がかからず、場所もいらない俳句や短歌は、傷痍軍人でも楽しめる趣味としてブームになった。趣味は残ったのである。
三段跳の金メダリスト織田幹雄は、競技書の結びにこう書いた。
今や第二次世界大戦は終り、再び平和が訪れたのであるが、敗戦日本はいつの日にかオリンピック出場の機会が与へられるのであらうか。しかし近い将来必ず競技愛好国日本として認められ、オリンピックの舞台に登場を許されるに違ひない。三段跳日本の覇業を継いで呉れる人は果して誰であらうか。
青少年諸君、この光栄を担ふのは諸君の新らしき精進にあるのだ。陸上競技 織田, 幹雄, 1905-1998 旺文社 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
こっちは明日の飯の心配をしているのに、三段跳なんか知るかというのが大半の意見であろうが、どんな時代にあっても、人間は自分が好きなものを推奨したいものらしい。
時にそれは牽強付会にも結びつき、ディケンスの本を売ろうとした人は、「何をおいてもヂツケンスを!」 と繰り返した。
あなた方はどんな小説が一番欲しいか。
ざつと次の如きものに相違ない。―逆境のさ中にあつて、慰めと力とを与へてくれる小説。幸ひ良き生活に恵まれても、不幸な人々の存在と悲しい運命を忘れさせない小説。
一日の激労の後、憂さも疲れもふつとばしてくれる愉快な小説。淚と笑ひの息つく暇もない明暗図を繰り広げて、人生教育を果たしてくれる小説、そしてもう一つ、我々をして狭い島国の古い封建的夢をかなぐり捨てさせ、自由の世界に広々と窓を開き、民主々義を呼吸してゐる人々の生き方をいつの間にか教へてくれる小説。
一々尤なる切実な註文だ、だが、さてそんな区々雑多な要求を一手に引受け、今すぐおいそれと満足させてくれるやうな小説作家が、一体、世にあるだらうか。
あるのだ!この奇蹟を成し遂げた人こそ、世界大衆文芸の父、イギリス人チールス・ヂツケンスその人に外ならなかつた。発掘すれば何でも出てくる文学の大皷脈、ヂツケンス。不思議にも昨日今日の我々日本人の気持にぴつたり来るヂツケンス。
だから、先づ何をおいてもヂツケンスを!(中略)
先づ何をおいてもヂツケンスを!あなた方がそれを叫んでゐるのだ。ヂッケンス物語集 〔2〕 Dickens, Charles, 1812-1870 松本, 泰, 1877-1939 松本, 恵子, 1891-1976 不破書房 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
江戸の郷土史を研究する多麻史談会の本部は、丸焼けになった。下町も焼けた。建物がなくなり、街から見事な富士の雄峰を眺めることができる。昔の錦絵そのままで綺麗だが、このままでは先祖に対して申し訳ない。江戸っ子たちは立ち上がり、復興の家を建て始めた。多麻史談会も勇み立ち、寛文二年刊行の江戸地誌を復刊しその意義を語った。
温故知新は将来を卜する指針であり、焼野原のお江戸と、草分当時のお江戸と、比較するのも興味なしとしない。
江戸名所記 淺井了意, 多麻史談會 多麻史談會 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
野心的な者もいた。都市計画家の石川栄耀は、全焼を理想都市を実現する好機だと言い切った。
今、我々の当面してる運命も考へ様によつては、「どの家のどの部屋にも太陽の光線」をあて、「どの家のどの庭にも生鮮蔬菜を栽培」せしめんとする、都市計画百年の要望を一足飛びに実行し得る機会を与へてゐる事にもなる。
此は百年の理想をもちながら都市全焼の機会のないものには望んだとて得られない機会なのである。
焼けた我々がここに目覚めて此を断行するならば、取りあへずの危機の切り抜け策として最賢明な手を打つた事になるのみならず、それは世界にサキガケ此の理想を断行した事になるのである。
後世幾百年の子孫は戦敗をせめる事を忘れ「焼けて好かつた」をくりかへしてくれる事にならう。
悪運の石をそのまゝに挺子とする賢こさを我々はもちたい。都市復興の原理と実際 石川, 栄耀, 1893-1955 光文社 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
白紙から理想都市を造るのはロマンがあるが、実際のところはどうなったのかというと今の都市だ。石川の願いはかなわなかったが、ともあれこの時の情熱は本物であった。
このような牽強付会さは、どの業界にもあった。釣り人は趣味生活を楽しむ余裕がなければ、新日本建設は成らないと絶叫した。
私は、これからの時代に最も即した万人的の慰楽として、魚釣を推したいと思ふのです。海に川に渓谷に、清浄な大気を呼吸しながら終日釣り暮すことが、いかに健康的であるかはいふまでもありますまい。
この時節に、のんびり釣などをと、叱る人があるかもしれませんが、それはとんでもない考へ違ひです。いかに世の中が逼迫してるようと、趣味生活をたのしむ余裕ぐら持つてなければ、新日本建設といふ大業が達成される筈はありません。四季の釣 益田, 甫 右文社 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
ここにも妙な明るさがあった。雑誌の特集号の巻頭言には、次のような能天気なことが書かれていた。
くよくよ憂欝にすごしても同じ人生五十年だ。たまの休日の出漁は、稼いで来た後の一風呂にも似て、爽快そのものである。うんと働いてうんと遊ばう。そして、大いに釣つて大いに楽しむことである。
釣場案内. 第1輯 つり人社 つり人社 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
全てが良すぎる文章としか言い様がない。つり人社は敗戦後、いち早く釣り雑誌を創刊し、『釣場案内』は別冊臨時特集号といった立ち位置であった。今もつり人社は存続しており、運営サイトを確認したところ、「釣りは遊びだ。だから本気になる。」と書かれていた。「うんと働いてうんと遊ばう。そして、大いに釣つて大いに楽しむことである」の精神は受け継がれているようだ。
我々の趣味や楽しみ、あるいは研究こそが、復興に貢献できるのだと叫ぶのは、陣取りゲームにかなり近い。しかしなんらかの計算があったとしても、その明るさは本物だ。戦争は終わった、我々とともに遊ぼうじゃないかと熱く語る人々がいたのである。
解放感
明るさの後ろに解放感があった。戦時中に本当の気持を喋れなかった者にとって、敗戦は喜びだった。
八月十五日終戦となつた。見事に日本の惨敗だつた。私は終戦ときいて心から喜んだ。本当に嬉しくて涙が出さうだつた。あゝ、何といぶ永い間の暗い欝陶しい生活だつたことだらう。私は何年振りかで思ひ切り大気を呼吸した思ひだつた。私は戦争中どんなにあたりに気を兼ねて暮してゐたことだらう。うつかりしたことは云へない。本当の気持は喋れない。世間の人は必勝の信念とかで有頂天になつてゐるが、私にはそんな信念はどうしても湧いて来ない。大本営発表の戦果が如何に華々しくても、ちつとも嬉しくない。たゞ戦争が早く済めばよいと、それだけを念じてゐた。その戦争が済んだ。しかも日本が負けて、日本の建的専制主義が崩壊する機運に恵まれた。正に歴史転換の契機となつた敗戦だつた。私はこれには有頂天にならざるを得ない。
新らしき日 渡辺, 順三, 1894-1972 新興出版社 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
いくらなんでも喜びすぎだが、渡辺は戦時中にも迎合的な作品を書いていない。それどころか太平洋戦争の翌日に治安維持法違反で検挙されているので、有頂天になるのも仕方がないのかもしれない。渡辺のように弾圧された者にとっては敗戦は朗報で、産児調節運動を理由に投獄された医師の馬島僴は、終戦の放送に涙を流した。
終戦の放送を聴いた時、私には交々の感慨が湧いて、涙が止め度もなく流れた。
鳴呼良かつた、もう無駄な災難を受ける必要もなくなつたんだと思つた人がどんなに多かつた事か。あの人があの子が、どうか生きてゐて呉れればと希つたし、さうだ、自分も活きる事が教へられるんだ。さあ、どうすれば、どうなる、と呆然としてゐる間に、進駐軍の放送は、次から次へと人民解放の布令を、まるで夢のやうな、然も厳粛な事実として、聴かされるのであつた。幸福なる夫婦 : 産兒調節の科學 馬島僴 新風社 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
注目してもらいたいのは、馬島が進駐軍を人民解放を実行する救世主のようにみている点である。
占領と効率
天皇陛下の聖断によって敗戦を受け入れ、四等国となった日本は、連合国軍の占領下にあった。
これらの文章が書かれた時期は、一般的に多くの人々は虚脱したとされている。しかし気持は一枚岩ではない。これまで見てきたように、様々な感情が渦巻いていた。召集されることもなく、空襲も軍事訓練もなくなった。解放感で満された人々がいた。上陸してきた「鬼畜米英」は、案外気のいい奴らでキビキビとしていた。
官庁の非効率さへの不満
大前提として、日本人は常に官庁の非効率に不満を持っていた。
官庁の仕事が、民間に比して能率が低いのは、一にも二にも法律づくめ、規則づくめで、形式に拘泥し、内容を軽視するからである。従つて繁文縟礼であり、従つて杓子定規である。
日本及日本人 (8月15日號)(54) 政教社 政教社 大正一三(一九二四)年 国立国会図書館デジタルコレクション ↗
何ぞといへば、直ぐ規則を楯に取つて、情実の酌量もなければ、除外例の執務もない。さうしては、時間から時間へ、機械的に、操り人形の動くが如く、生気のない。融通のない、応用のない、非世間的の生活を続けて行く。何れの行政官庁を見ても、活気のない、死の国のやうな、陰気な暗い気分の漂つて居るのは、寧ろ当然の事だらう。
集約主義 : 一名・生存能率増進法 西村, 文則, 1877-1971 隆文館 大正九(一九二〇)年 国立国会図書館デジタルコレクション ↗
地方の県庁に行つても、郡役所や、税務署や、裁判所や、登記所や、村役場に行つても、乃至は都会の地の市役所に行つても、区役所に行つても、中央政府である各省に行つても、又これ等の附属官庁に行つても。彼等が人民に対する態度の不遜と不親切とは甚しく国民を蔑視したもので、人をしてまま不快の感に呆れしめるのだ。甚しいのは、営業本位ともいふべき鉄道院、或は市電気局、郵便局、銀行、会社にして猶且つ然るものが多くして困るのだ。さうかと思ふと、渠等の集団域中から事務簡捷の声などが高められて出る。
簡易生活法 西村, 文則, 1877-1971 大日本図書 大正五(一九一六)年 国立国会図書館デジタルコレクション ↗
いくらでも出てくるのでこの辺りで止めるが、ずっと「官尊民卑の国風を、一寸除去する事」は難しかった。「甚しい考へ違ひの者は、威張らんが為に官吏」になり、それを名誉と考えていた。(簡易生活法)
「能率の父」上野陽一は「工場ばかりでなく、官庁においても、商店においても、亦家庭においても、さらにまた、個人としても、常に能率をよくすることは考へなければならぬ大切なこと」で、「役所などでも、今日は一日書類さがしにつぶして」しまうことも多い。これは「整理の基礎が科学的に作られてゐない」からで、「世界の大勢を見ると、日本の使命は実に重く、よほど気をしめてかゝらぬと、競争にはまけ、世界の舞台からつきおとされてしまふ危険」があると警鐘を鳴らした。開戦した結果、日本は世界の舞台からつきおとされてしまった。
能率の増進 上野, 陽一, 1883-1957 教化団体聯合会 大正一四(一九二五)年 国立国会図書館デジタルコレクション ↗
戦争中も状況はあまり変わらなかった。
日本の行政は、まるで椅子と判との行政で、たとへば役所が外廓団体にひとつの仕事をさせるのにも二十も三十もの判が要るといふ始末なのだから、ひとときを惜んで戦ふべきときにも、その習性がでて、結局責任回避といふこと以外になにも意味がないことになつてしまふ。
終戰まで 古谷綱武 鵰居堂書房 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
GHQ への賞賛と不満
GHQ がやってきて、これが変わった。
此の五ケ月間の日本は、変つたといへば大いに変つたし、変らないといへば少しも変つてゐない。変つた点をいへば、占領軍司令部の鞭のお蔭で、鈍重駄馬の如き政府が、不承無承色々な改革に着手したことである。同じことなら、自己の意志でテキパキと決めて行けるような国民政治体制と、政府を一日も早く持ちたいものである。
日本の反省 第2部(戦争経過篇) 堀内, 庸村, 1900-1962 青年文化振興会出版部 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
進駐軍が来たから改革が起きて世の中は変わったが、政府は相変わらずでテキパキと決めて行けるような国民政治体制にはなっていないと、なかなか手厳しいことを書いている。鈍重駄馬の如き政府への嫌悪感は、時に GHQ への賞賛に転じた。
提言
進駐軍を見習え
去る十月二十六日ごろ、埼玉県幸手町及久喜町に分駐してゐる米軍部隊のパネージ一等中尉は、軍糧秣廠にある在庫品の中から、米麦、小麦粉、味噌、醤油、などを町民に無料特配し、町民たちを感謝させ、一段と進駐軍の信頼を昇めてゐると云ふ。
この恩恵に浴したのはわれわれ自身ではないが、喰ふに困つてゐるのは御同様。話をきいただけでもうれしいではないか。
まして、同中尉はこの事態を前にして「進駐軍司令部に問合せてゐるひまがない、一切自分の責任において断行」したのである。キビキビした胸のすくおもひがする。
此の処置には全く果断に適切なる措置と云ふ意味での道義性が、ものをむづかしく考へない所に於て、美事に実現をみせ意義あらしめる。われわれに取つて大いに学ぶべき点がふくまれてゐるのではなからうか。
これが日本人だと、やれ法律がどうの、手続きがどうのと書類ばかりをもちはこんで、肝心の処置がとられるころには、すでに現品がなかつたと云つた具合である。
われわれは、もう少し進駐軍にみならつて各自責任ある行為をなさなくては、せつかく解放された自由も、たからのもちぐされとはならないか‥‥。世界公民論 飯島歳雄 文化宣傳社出版部 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
釈放された者たちの解放感については、すでに述べた。戦前に弾圧された人々にとって、GHQ は日本の軍国主義を打ち破ったヒーローで、戦前から続く社会運動を起動させるシステムとしても占領政策は機能したのである。
主義主張を持たない人々も「法律がどうの、手続きがどうのと書類」をいじくる旧政府より、キビキビと「日本占領後の管理政策を発表し、これに基づいて、迅速にしかも的確に施策を実行」(新しき平和 : 日本國民の進路 住谷悦治 カニヤ書店 昭和二一(一九四六)年 https://dl.ndl.go.jp/pid/10263568/1/31)する GHQ を好ましく思う人がいてもなんら不思議はない。
ひとつの事実として、進駐軍の効率の良さや仕事の速さを賞賛する声は大量に残っている。
既に御承知のやうに、進駐軍が入つて参りまして、能率的な仕事を各所でやつて居ります。特に横浜附
道路 8(1月)(70) 昭和二一(一九四六)年 国立国会図書館デジタルコレクション ↗
簡単で能率的なアメリカの進駐軍
まごころ 後藤, 福次郎, 1901-1975 文化建設社 昭和二二(一九四七)年 国立国会図書館デジタルコレクション ↗
戦前から能率について考え続けた上野陽一は、政府・官庁の効率の悪さを指摘し、このままでは戦争に負けてしまうぞと主張した。占領下にあることをどう考えていたのかは不明だが、こんなことを書いている。
終戦後、私は直ちに筆をとつて、「ナゼ日本はマケタカ」その原因と、これからの覚悟とをかいた。
(中略)
打ちのめされた国が起ちあがるためには、国民のヒトリヒトリが、確実に起ちあがることが必要である。そのためには、ヒトリ残らず、その日その日をモットムダなくムリなく、たゆまずに働かなければならない。この意味において、一日24時間の正しい生き方をかいた本書は、新日本建設の土台を示すものだとする。一九四六、五、二
著者能率24時間 上野, 陽一, 1883-1957 柏書院 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
タスクが適切に処理されている状態については、上野にとってはあるべき状態でしかないのだから、受け入れない理由はないのである。
検閲の謎
それでは GHQ に不満を持った人はいなかったのかといえば、もちろんいる。
ひとつは検閲で、これは不快なもののひとつであったとされている。春木猛は巻末に嫌味のつもりで、次の一文を記した。
検閲により所々削除せられたので、文章や思想の繋がりが甚だ不備になつてゐる箇所がある。削除による空白をあけることなく、そのまま詰めた。これを諒せられたい。
米人の觀る日本・アジアの再建 春木猛 大衆社 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
もちろんこの一文は、検閲官に削除された。
ひとつ、不思議なことがある。春木を除き、検閲に抵抗するために、削られる覚悟で目茶苦茶な悪口を書いた人がいないのである。GHQが怖くて書けなかったのだろう……というのは戦前の記者たちを見くびりすぎだ。今とは違い昔の記者は不良学生崩れの半分犯罪者というような人物があたり前にいて、反骨精神を持つ者もいた。そして戦前の検閲は生死にかかわる可能性があるが、プレスコードにひっかかったところで殺されることはない。本当にムカついているのであれば、玉砕覚悟で悪口を書きまくると思うのだが、いないのである。
むしろ戦前の検閲を憎み、自由な発言ができると書いている人が圧倒的に多い。
野蛮な封建的検閲制度は、私の訳稿の出版を不可能にした
(中略)
同じく野蛮な抑圧制度によつて、数年間を幽閉され栗原佑君の助力により、私のまづい訳女が日の光を見ることになった。ヨーロッパに告ぐ Mann, Thomas, 1875-1955 石川, 湧, 1906-1976 大雅堂 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
中断された「縮図」の自由な出版と共に、今日の日本の姿に一入感慨深きものを覚えるのだ。
縮図 徳田, 秋声, 1871-1943 内田, 巌, 1900-1953 小山書店 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
前書き・後書き以外であれば、演劇界の人間がGHQの仇討ちや忠義、服従する女性を描いた作品の上映禁止に文句をつけている事例など、いくつかみつけることができたが、概ね検閲を受け入れていたようにみえる。出版界の苦境をくぐり抜けてきた古強者の記者などは、GHQの検閲などないのも同じだとせせら笑っていたのではないか。
今回の調査中、いくつか検閲の内容に疑問を感じるところも、あるにはあった。例えば子供向け講談速記本では、次の箇所が削除されている。
きんとうんの法は一飛びに十万八千里を雲にのって飛ぶといふ、まことにB29よりもはやくて、ちょうほうな魔法でした。
孫悟空 : ジープ社文庫 麻木内三 ジープ社 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
これは講談速記本の技術で、昔の話に現在の話題をやや強引に入れるという冗談だ。「B29よりもはやくて」というところでひっかかっているのだが、どうでもよすぎる。検閲する人間は、英語ができる。つまり基本的に教育を受けているということになるが、講談速記本は知的水準が低い人向けの作品である。彼らがこの技法を知らなかった、あるいは機械的に判断をしたのだろう。
英文学者の甲斐弦は、わずかな期間ながらも検閲官を勤め、後に回想録『GHQ検閲官』(葦書房・1995年)を書いた。GHQ検閲を言論の自由を規制するものとして、批判する内容となっている。その彼でさえ検閲官の試験を受け、「肝心なのは実力」で、「年齢も性別も前歴もここでは一切関係はな」く、合否が決まることに驚き、検閲に嫌気がさし日本の県庁に就職を試みた際には、以下のように思った。
夜、熊本県外務課から速達が来た。採用予定につき至急出頭されたしと言う。
また公休を取って、六日熊本に帰り、七日朝県庁に赴いた。
待遇は本俸七百円、家族手当二百四十円。勤務は八時から十六時までだという。
これでは内職も出来ぬ。無線電信講習所の方がよさそうである。
だが待遇そのものよりも、提出必要書類の多さと煩雑さにあきれた。
(一)五高の卒業証明書
(二)同成績証明書
(三)保健所の健康診断書
(四)大学の卒業証明書
(五)同成績証明書
(六)米軍検閲局の退職証明書
(七)同勤務成績証明書
(八)同仕事の内容解説書
(九)同待遇証明書
実に九種類の証明書を可及的速やかに提出されたいと言う。
相も変らぬ官僚主義である。米軍検閲局の選抜試験の、前歴にも年齢にも性別にも一切こだわらぬ実力主義と比べてみるがよい。
戦争に負けてもなお目が覚めないのか、とつくづくいやになった。
当然の話だが、占領軍は聖人君子の集りではない。知られたところであれば、終戦処理費の負担や、米兵の素行不良、施設が米軍に接収されてしまうことなど、色々な問題があった。
ただし接収については、面白い証言が残っている。「政府の当局者が業界の業態に不案内」で「業者が当局の機構に不慣」なため、コミュニケーションに齟齬が出ていた。「今日の事態を利用し又はこれに便乗せん」とする輩も多くいた。そのため接収される人が、『接収されることは止むを得ないとあきらめる。又、住み込んで来る米国の軍人に対しては少しも反感なぞを持てない。むしろ好意的に話が出来る。ところが、改修工事の係や建築屋には実に憤懣に堪えない』と思うことがあったという。ここでも非効率な官庁と効率的な GHQ の対比がみられるのである。
あくまで前書きと後書きから読み取れる範囲での解釈だが、結論は以下のようなものになるのであろう。
- 進駐軍には問題もあった。
- しかし少なくともGHQは、効率的で合理的に見えた。
- そして彼らがもたらした変化は、様々な思惑や気持の受け皿として、機能していた。
前書きと後書きから読みとれる復興の要因三つ
私は日本がなぜ復興できたのか、よく分かっていない。偶然の要素はかなり大きかったのではないかと考えているが、前書きと後書きから読みとれるものは次の三点である。
- 民主主義
- 科学立国
- 子供への期待
順番にみていこう。
民主日本
この頃は誰もが民主主義、民主主義といひます。男も女も、政治家も商人も百姓も学生も、これからは民主主義でなくちゃいかん、と声を揃へて叫んでゐます。
日本における民主主義 : 民主主義は日本でどのやうに發達して來たか 宮澤俊義 印刷局 昭和二一(一九四六)年 国立国会図書館デジタルコレクション ↗
敗戦で人々は、我々は民主主義で行くしかないという気分になった。
長い間だまされてつづけた戦争は、みぢめな終りをつげ、今わたしたちは焼野ヶ原とのなかに、生まれかわった「民主主義日本」を建設しようと、希望に燃えて起上つてゐるのです。新しい希望に燃えて起上つてゐるのです。
金時計 Panteleev, L., 1908-1987 槙本, 楠郎, 1898-1956 二葉書店 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
ここにもあるように、多くの人が「「騙されたの……」やれ「軍国主義が何うの……」と勝手次第な主張」をして、「自分達はいかにも戦争に関係が無かつた様な顔を」して「戦争をする意志が全然なかった振り」をした。
(選擧人への警鐘 : 民主政治への初の總選擧に於ての投票指針 ヌミネ社 ヌミネ社 昭和二一(一九四六)年 1946 https://dl.ndl.go.jp/pid/3857061/1/4)
「選擧人への警鐘」では民主政治になったとしても「軍國主義者や國家主義者の手に踊らされた」ようになるぞと警鐘を鳴らしているのだが、「だまされていた私たち」というのは、復興へのひとつの原動力であった。自分を騙された被害者とすれば、罪悪感や虚脱感を麻痺させることができる。「我々は軍国主義の被害者だ。だから新しい日本は我々が建てるのだ」と考えることで、汚れのない主人公になることができたのである。
ただし私達は「体制に順応しただけ」だとすれば、民主主義への熱狂もまた「体制に順応しただけ」になる。こうして「民主」はひとつのスローガンとなり、日本銀行が次のような広告を出している。
一人一人の貯金から民主日本の夜があける
民主政治と婦人 久布白落實 日本自由黨婦人部假事務所 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
民主主義は一般的にも受け入れられ、「民主的に行かうぢやないか」と冗談まじりの軽口を叩く人もいたようだ。
戦争が終つたら急に民主主義とか自由主義とかいふ言葉が使はれるやうになつた。何につけても民主主義だ。「それは民主的でない」とか「民主的に行かうぢやないか」とか、猫も杓子も民主主義を口にし、毎日出る新聞雑誌にも、この文字を二つや三つ見ない日はない。ところで、さう言つてゐる御本人自身、民主主義とは果してどういふ主義かといふことが判つてゐるかといふと、上は時局便乗政治屋から下は八さん熊さんに至るまで、案外判つてはいないやうに思はれる。
民主主義とは何か 伊達雄策 新文社 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
戦後の出版物や映像作品などで、「民主主義なんだから」と言いながら、手前勝手なことをする、少し前例と異ることを許可する場合に「民主主義の世の中だから」と笑顔で言うなど、いくつかの民主主義ジョークのパターンを見つけることができる。これは昭和50年代でも残っていたジョークで、民主主義という言葉が人口に膾炙していたことがよく分かる事例だろう。
民主主義は人気があるから、解説本も続々と出版される。児童向け、親向け、農村向け、ラジオ講座と、あらゆる階層に向け民主主義は教材化されていった。解説本の中には、民主主義は輸入品ではなく、戦前の日本から接続されたものだとするものもあった。
民主主義は今日の合ひ言葉であります。季節の花が開いたやうに民主主義の叫びは到るから聴えて来ます。民主主義は明治の開国以来、その芽を開き蕾を持つてゐたのでありますが、開かうとした蕾は洲事変以来、軍国主義の嵐によつて、ことごとくつみ取られてしまつてゐたのでした。しかし、流石に、その根は枯れることなく、今日再び爛漫と、花を開くことになりました。
デモクラシーとは何か : 自由主義か・社會主義か 中村哲 金の星社 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
憲法学者の鈴木安蔵は、自由民権運動を「日本における最初の民主主義運動」として掘り起こし、忘れられた憲法草案を顧みる書籍を出した。(憲法と自由民権 永美書房 昭和二一(一九四六)年 https://dl.ndl.go.jp/pid/1281396/1/4)。敗戦から一年たらずで、民主主義を自前の歴史にあったものとする作業が始まっていたのである。
法学者の中川善之助は「選擧に於ける民主的精神」で、精神が先で知識は後だと開き直った。
この意味に於いて、之を精神と知識といふ言葉で言ひ現はすならば、私のいひたいことは「先づ精神次に知識」といふことにならう。知識があつても精神がなければ何にもならない。しかし知識がなくとも精神があれば何かにはなる。
「先づ己れの信ずる所に一票を投ずる精神に徹せよ、然る後に何を信ずべきかを学べ!」ーーこれが終講之辞を終る私の結語である。政治教養読本 中川, 善之助, 1897-1975 河北新報社 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
これは少し無責任かつ、雑で荒い理屈である。ラジオの民主主義講座では、この雑さを警戒し日本人の気質に釘を刺している。
メーデー運動でも何でも、さういふ人間がすることを、日本人が真似る時は、血まなこになり、高い声を出し、半気違ひになり易い。
こういふ風に性質の相違した民族が、メーデー運動などといふ形だけを真似ると、大変な間違が起りやすい。まかりまちがへば、暴動内乱の端緒になりやすい。(中略)内閣をば倒したが、何週間たつても、次の内閣が出来ないといふやうな無鉄砲なことをしてはならない。これは乱民のすることであつて、正直な人間のすべきことではありませぬ。民主主義十二講 天野貞祐, 日本放送協會 日本放送出版協會 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
すぐに血まなこになり、半気違ひになる。それは民主主義を熱狂的に迎え入れるものであり、戦争に駆り立てたものだ。熱狂の中でそれと気付き、指摘する人がいたのである。
『民主主義とは何か』の伊達は、判っていないことは問題ではないという理屈をこねくり出した。
「なあに。そんな小むづかしい理窟なんか判らなくてもいゝよ。人間はどうせ生れながらにして民主主義者なんだから。人間が、側から無理に着せられた妙な着物を脱ぎすてゝ生れながらの素ッ裸な気持になりさへすれば、それが民主主義なんだから」
さうだ、その通りである。人間が生れながらの本然の姿に立帰りさへすれば、誰も彼もが民主主義者なのだから、その本然の姿を曲げたり、くらましたりせず、本然の要求を生かすやうにして行ひさへすれば、民主主義は正に徹底するわけである。少しもむづかしいことではない。理窟が判つたからといつて決して民主主義者になれるものではない。理窟をいふ者は、「理窟」といふ余計な着物を着てゐるだけに却つて真の民主主義者になれない位のもので、理窟も何も知らず、出たとこ勝負に、心の赴くまゝに行動する八さん熊さんの方が、或は真の民主主義者だといふことが出来るかも知れない。民主主義とは何か 伊達雄策 新文社 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
この後で、とはいえ人間は考える生き物だから……と続け、民主主義の仮面を被っただけではいけない、えらい人がいうから民主主義というのも駄目、それじゃ軍閥に従順すぎて、ついには敗戦してしまった昔の繰り返しじゃないかと釘を刺した。
倒れた家は起すこともできる。ちぎれた衣は縫ふこともできる。しかしひとたび砕かれたる魂はさやうにたやすく昔に返ることはできない。今明るい平和の光のなかに、暗い数多くの問題を背負はされて、われわれは、吹き飛んだ支柱を求め、新しい礎石をけづって魂の再建をはからねばならぬのだ。
ただ始めから魂を持たなかった人々は、終戦と共に、かつて戦争を謳歌したと同じ大声をもつて、自分の外に戦争協力者を追求しかつて軍国主義に示したと同じ性急と熱心とをもつて民主主義を讃美してゐる。時代ととも流れるかかる無自覚は決して過ちの再来を防ぐ所以ではない。かくの如き表面の変貌は実一は実質の同一を意味するからである。知性の恢復 大室, 貞一郎, 1898-1977 研進社 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
そしてこの民主主義は、自力で獲得したものではないという自覚を持つものもいた。
いま、日本は自と解放の黎明に立つてゐる。婦人にも参政権が奥へられ、三十余名の代議士をさへ出すに至った。しかし、この民主義はわれわれが自力でたかい取ったものではない。人民の大多数に堪えがたい犠牲を強要したあの呪ぶべき戦争が敗北に終った結果として、外から与えられたものである。
しかし、この『奥へられた自由』を真にわがものとするか否かは一つにわれわれの努力如何にかつてゐる。現に進行しつゝある民主義革命の重要性はにこにあるのだ。もしこの際われわれが身をもつて民主々義を徹底的に実現しなかつたならば、われわれは再び反動と圧制の束縛の中へ追ひ込まれるであらうからである。婦人の解放と自由 山内房吉 文苑社 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
これらの声は熱狂の中でかき消されてしまったが、虚構であろうがなんであろうが民主日本になった。
象徴的なのは、日本国憲法が肯定的に受け入れられたことだろう。時事通信社調査局が1947年8月に実施した調査によると、「あなたは新憲法の条文とか説明などを一とおり読んだか聞いたことがありますか」にはいと答えた人が59.7% いた。1946年12月16日の『毎日新聞』では、憲法改正は成功が35%、だいたい成功が57%で90%以上の人が肯定的に新憲法を受け入れている。
実はこの世論調査自体が民主主義を意図したものであった。
「民主政治は世論政治だ」といわれます。政治を行う上に世論を尊重すべきことは、今さらのことではありません。
(中略)
古今東西を問わず、世論を尊重すべきことは、政治を行う上に、もつとも大切な心がけとされてきたようであります。まして新憲法によつて主権が国民の手にうつりましたこんにち、政治はあくまで世論を基礎として行わねばなりません。
(中略)
これまでの新聞は、こんなことがあつた、こんなことがあると、もつぱら社会の出来事を報導することが主なる使命でありましたが、こんにち民主主義時代における新聞の使命は、それと同時に、人々はどう考えているかという、いわゆる世論を正確に伝えることも大切なニユースとしてあつかわれるようになつたからであります。新聞のはなし 北國毎日新聞社 北國毎日新聞社 昭和二三(一九四八)年 国立国会図書館デジタルコレクション ↗
GHQの「民衆の声を伝えよ」という命令のもと、放送が開始されたのがNHK のラジオ番組『街頭録音』だ。言論の自由を実感してもらうため、一般市民の声をお茶の間に届けるというわけである。この番組では、統計的な手法は使っていないと明言しつつ、独自の世論調査を行なっている。1946年11月から1947年5月にかけて実施した新憲法をどう思うのかという調査では、次のような結果が出ている。
行き過ぎと思う 25%適当だと思う 50%もの足りないと思う15%意見なし 10%
これはなかなか面白い結果で、四分の一が「行き過ぎ」だと感じ、半数は「適当」としている。もの足りないと思った 15% の人たちはというと、さらに過激かつ民主的な新憲法を望んだということになる。先に鈍重駄馬の政府と比べ、キビキビとした GHQ が受け入れられたことを書いた。新憲法も押し付けという感覚よりも、民主化されて新しい時代がくるのだという期待感が上回っていたのではないか。
それにしても、これは不思議といえば不思議な話だ。日本には平等と自由の受容に歪みがあった。平等は過剰に平等であったし、自由は単純化された。これでは民主主義を理解できるはずもない。しかし面白いことにこれを打ち消してしまうほどに、日本の社会はある種の熱狂や過剰によって激化していく傾向があった。
これらについては後述するが、そしてこの期待感や激化を土台に、人々は科学立国と子供に賭けたようにもみえるのである。
科学立国
科学は人類の貴重な共有財産であつて、決して少数の専門家だけの専有に止つているべきものではありません。すべての人々が科学を愛し、すべての人々が科学の発展に協力して行くような雰囲気の中からこそ、ほんとうに優れた科学者が生れるのであり、またそのような雰囲気のもとでこそ、はじめて健全な科学の発達が期待出来るのであります。
科學敎室. 第1集 東京帝國大學理學部職員組合 東洋書館 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
明治中頃あたりから、迷信打破がブームになった。明治30(1897)年には迷信打破が叫ばれていた。迷信は、つまるところ嘘である。嘘が嫌われた結果、フィクションを楽しめる人が少なくなり、娯楽作品の王様は実話を語った体裁で書き下される講談速記本だった。
効率化と合理化も明治の人は好きだった。明治37(1904)年には、そのうち器械が発達するのだから、女性に裁縫を教えるのは止めろと主張する人がいた。
今日の様に絶対的の技術として、裁縫にのみ力を注ぎ、その他の職務、即ち看護法、育児法の如き、女子として最も必要なるものを、放棄して顧みないとは、判断に苦む所である。是れ旧夢に迷ふて、未だ能く醒めずに、習慣に拘泥して居る。
明治の家庭 渡部, 竹蔭 前川文栄閣 明治三七(一九〇四)年 国立国会図書館デジタルコレクション ↗
先鋭的な明治人は習慣に拘泥することを嫌った。にもかかわらずなぜ官庁の非効率は放置されたのかは謎であるが、迷信打破に合理化が加われば、それは科学である。
生活の中の科学ということは、よく言われていた。それは大袈裟なものではなく、風呂に必要な水を計測し、無駄をなくそう程度のものであった。肌着は木綿で、汚れに強く保温性が高いのは毛織物、ナフタリンで虫を防ぐ、この程度の科学的な知識があれば生活は楽になると、棚橋源太郎は主婦たちに説いた。(生活の改善 棚橋源太郎 著 教化団体聯合会 P39 大正一四(一九二五)年(https://dl.ndl.go.jp/pid/964130/1/17))
これらの流れは戦時中も続いた。「科学的精神の涵養」と「生活改善」では、迷信打破はスローガンとなった。
此の際思ひ切つて不合理な非科学的な生活から脱却して全国民一体となつて一億一心御国の為に生活の合理化を計り、あらゆる無駄を省いて一方生産物の増収に務むると共に他面消費を節約して国家の要望に副ふ様努力せねばならぬ。
今日の生活を建て直す上に最も支障を来すのは科学的精神の乏しさから来る迷信である。国民生活費の研究 安藤, 政吉, 1902-1948 麹町酒井書店 昭和一九(一九四四)年 前書きを読む
このように明治の中頃から科学的な知識を身体化させるため、多くの人が奔走していた。これは一貫した動きである。ところが不思議なことに、敗戦を迎えると、この敗北は科学的な思考の欠如が原因なのだと、多くの人々が語り出したのである。このような言説は、前書き・後書きの、いたるところで語られる。子供向けの読み物では、日本の科学は表層的なものに留まっていたから、戦争に走ってしまったのだとしている。
日本のいままでの科学は、外親非常に進歩してるやうに考べられていたのであるが、真実のところ、それは装飾にしか過ぎなかつた。また粗雑でもあつた。それ故に日本の科学は行きづまつてしまうてたのである。
そんな科学が、どうしてわれわれの生活を幸にすることができるであらうか!誤まられた科学、迷つた科学のために、日本は途に大きな取りかへしのつかない戦争という過失をしてまつたのである。エヂソン伝 川端, 勇男, 1905-1982 潮文閣 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
彼らがいう正しい科学とはなにか、『ラジオ故障修理法 科学建設社編輯部 科学建設社 昭和二一(一九四六)年』の序文に、次のような一節が登場する。
科学の先端をゆく無線技術の生活面への一つの応用として、我々に最も親しみ深いこのラジオを、最もよく理解し最も巧く応用するには、第一に自分自身の力ですべてを実際に行つてみることが必要である。
ラジオ故障修理法 科学建設社 科学建設社 昭和二一(一九四六)年 国立国会図書館デジタルコレクション ↗
頭の中で理解するのではなく、自分で考え手を動かす。ちょっと読むとなんでもないような文章だが『自分自身の力ですべてを実際に行つてみることが必要である』は明治中頃から漂い続けていた雰囲気で、先に紹介した富塚による『私たちの実践科学 富塚, 清, 1893-1988 社会教育協会 昭和二五(一九五〇)年(https://dl.ndl.go.jp/pid/1169454)』にもこんなことが書かれている。
一度再度、しらべて見て下さい。自分で実証してみて下さい。自分の納得のいくまで。
もしそれがなく人のさぐり出した理論にたよるより仕方のない今までの一般の方々の様ですと、うそか本当かの見さかいなく、まるのみするより手はありせん。したがって間違いをつかまされてとんだばかを見たり、また本末軽重がピンとしないので、とんだ見当ちがいの応用をしたりしやすいのです。自分でも独力でさぐり出せる能力がついてれば、これと反して「ここは怪しいぞ」ということもかぎ出せますし、応用するときの手心がわかって大きな無駄はしないですむのです。
1948年に富塚清は公職追放となるが、それを予測してか、いち早く科学読み物の執筆に活動の軸足を移した。もっとも富塚自身は子供向け読み物を書く理由を次のように説明している。
「大学の先生なんていう、やりがいのない、つまらない仕事--木の小枝や葉つぱをいぢくってる様なもので、根の方を扱ふ仕事でないものね--をやめて、こうした童話書きに専心するつもりだ。つぎつぎにかうしたものを出すから、諸君、仲間にしてくれ給へ。よろしくたのむ。」
その意気込みは本物で、「挿絵も、本の表紙も、ついでに、ひとりでやって」しまった。これは富塚自身が子供にお手本を見せる意味もあった。
いいと思うこと、やらなければいけないと思うことは少し位笑われたつて、進んでやつていいではないかね。僕は、頭は白髪でも、心は年とってゐないんだから、--君達よりも、若い位かも知れない--ずんずんやるよ。挿絵など思ひ立つて半月とは立たないんだから、まづいにはきまってるさ。然し、今にうまくなつて見せるから見てい給へ。毎日、毎日、電車の中だつて、どこだつて、素描をやつてるんだからな。君達とひとつうまくなり方の競争しようや。
おぢさんの冒険 富塚清 進路社 昭和二三(一九四八)年 前書きを読む
過剰といえば過剰だが、これは子供への期待の裏返しで、富塚だけでなく多くの著者が前書き・後書きで子供への期待を語った。
子供への期待
国敗れて、一番気の毒なのは子どもである。がまた、一番希望をもたせるものも子どもである。すまんねといつた心苦しさと、たのみますよといつた頼もしさと、それが一つにこみあげて来る心もちで、ぢっと見まもりもし、抱きあげたくもなる。
育ての心 倉橋, 惣三, 1882-1955 清水書房 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
これもある種の能天気さなのだが、我々が失敗したから子供たちに未来を頼むよと語りかける大人が数多くいた。
山の木が日ましに大きくなるやうに、君たちもぐんぐん伸びて行け。
山の木がだいじな役目をはたしてゐるやうに、君たちも自分のつとめをやりとほせ。
山の木が国をまもつてゐるやうに、君たちも力を合せて、わが日本をまもりぬけ。
私は諸君にせつにお願いしたいと思ひます。日本の木 小津茂郎 大日本雄弁会講談社 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
なぜ期待が子供へと向かったのか。ひとつには、大人はもう駄目だという現実があった。
終戦後の日本に、一番のぞみをかけることの出来るものは、子供たちでありませう。中等学校以上の人たちには、何といつても、いままでの教育のにほひがしみつてゐることでせうが、国民学校の生徒には、それがまだ深くはいつてゐないだけに、ほんたうの教育は、この小さい人たちから出来るやうに思ひます。そして、この人たちが成人した時に、はじめて、ほんたうの再建日本が見られるのだと思ひます。この小さい人たちを上手に正しい方向へ導いて行くことこそ、私たちこどもに関係のある仕事をもつものの大きな責任でありませう。
おさかなのうんどうくわい はたのいそこ 株式会社国民図書刊行会 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
もうひとつ、戦争の犠牲の中心は若者だった。だから我々が子供を守らなければという意志が生れた。
四年間の戦争を通じて、最も真剣に闘つたのは青年たちであつた。それと共に、戦争により、一番多くの犠牲者を出したのも、わが青年層からである。
戦争中青年の生命を失はしめた主な原因は、戦闘と結核とであつた。戦争全期間の戦死者は約五十万、戦災死者は約二十六万と発表されたが、丁度同期間にこれに劣らぬ莫大な数の青年たちが結核で死亡してゐる。
戦争は終り平和の訪れた今、結核さへ予防すれば、日本の青年の健康はほゞ保証されると見てよい。敗戦後の苦難を乗り越え新日本を再建設するのは、実に青年たちである。敗戦に対する責を感じ、熱き痛恨の涙の中から、私はこの大切な青年を護らんことを誓ふ。青年と結核 近藤, 宏二, 1910-1990 岩波書店 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
期待の表現として、私が最も象徴的だと思ったのは、この童話のあとがきである。
さあみなさんもふへいをいはぬつよい子どもになって下さい。
それとともに、どうか人にしんせつにして下さい。
さうすればやがて日本ぢゅうにしんせつがあふれみなぎるでせう。
あたらしい日本はたがひにしんせつをしあふ日本にしませう。
すこしのふへいのない日本にしませう。
それをするのはだれですか?
それはみなさんです。
これからの子どもです。たった一つ : 童話 水谷, まさる, 1894-1950 教養社 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
「ふへいのない日本」にするためには時間がかかる。「それをするのは」私ではない。「これからの子ども」がするということだが、能天気かつ無責任すぎだといえる。このような大人の励ましがどれほどの助けになったかは不明だが、「これからの子ども」たちの中に、それをしようとして、一定以上の成果を残した偉大な人々は出た。
もちろん大人も能天気で無責任なだけではない。子供のための環境作りを急いだ。
これらの意志は戦時中にはすでにあった。子供の学力低下を、心配し続けた大人がいたのである。学徒勤労動員によって学習時間が減っていたからである。浅野徹は1945年3月に『電流の性質』で「疲れた頭で楽に物理学を習得するといふことは実に容易なことではない。而も敢て之を為さねばならぬといふのが日本の現状である」と嘆き、「演習問題を各章毎に付加した。疲れた頭で解くには厄介かとも思ふが、休日など十分休養を得し後力試しをするに宜しからんかと考へる。」と学生を思いやった。
この気持は、おそらくは本物だ。戦争が終わり、学徒動員もなくなった。大人たちは学力低下をなんとかしようとした。印刷事情もあり複雑な図形の版下を組むことができない時代にあって、手書きの参考書が数多く出版されている。一刻も早く届けなければという気持があった。
ただしこういった書籍を、急いで刷った人々には、大きくわけて2つの思惑があった。ひとつは単純に、学習をしてもらいたいからというものだ。
戦後の日本は、農業も、工業も、何もかも、大いに科学化しなければならないであらう。しかし学徒は、勤労動員と空襲騒ぎとのために、ろくに勉強をしてゐなかつたのである。学徒の科学的教養は戦前よりも遥かに劣つてゐるのである。
こんなことでいゝのであらうか。
学校の授業も、食糧難、住宅難、交通難とあつては満足には受けられないことであらう。
しかし学徒には、何としても勉強してもらひたいのである。将来の日本のために、特に科学の勉強をしてもらひたいのである。微分積分學入門 坂入俊雄 著 東海書房 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
戦時中はいろいろの事情のために、中等学校の生徒諸君は満足に勉強が出来なかつたことゝ思ひます。ところで数学は、その基礎となる始めの部分が大切なのであつて、根がしつかりしてゐなければ、枝や葉が十分に茂れないやうに、数学も始めの方をいい加減にして置いたのでは、さきの方のむづかしいところのわかるはずは無いのです。ですから中等学校の生徒諸君は、戦時中の学力低下を補ふために、そしてそれは、これからの勉強の基礎となるのですから、自学自習大いに努めなければなりません。そのためには、独りで読んでもよくわかるやうな本が必要でありませう。
この本は、中等学校低学年の生徒のために、自学自習用書として書かれたものです。肩の凝らないやうな数学の本を、と思つたのですが仲々思ふやうには出来ませんでした。併し、この本が幾分なりとも諸君の勉強の手助となり得れば幸です。これからの日本は、農業も、工業も、いや日常生活までも科学的に合理化して、能率のよいものとしなければなりますまい。科学を勉強する手始めに、まづ数をしつかり勉強して下さい。将来の日本のために、せめて頭だけは肥えさせて置きませう。昭和21年4月6日著者>代数入門坂入俊雄著霞ケ関書房昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
もうひとつは単純に儲かるからである。
敗戦を経て「生徒の自覚による好学心、復員生徒、在外引揚生徒の入学等によつて、入学競争率は急激に上昇し」た。「事変中低調であつた上級学校入学試験も、本年度は俄然、微温低調さを一擲して猛烈な競争試験」となったからだ。今後、加熱する受験産業にいち早く参入しようという層である。
全國高等學校・專門學校・大學豫科入學試驗問題集 : 國漢篇. 昭和二十一年度 [著作學習館] 學習館 昭和二一(一九四六)年(https://dl.ndl.go.jp/pid/13339786/1/3)
平和日本の少年少女諸君!!現実の日本の正しい姿を直視して下さい。敗戦後の日本は平和愛好国民として世界平和に寄与すると共に、科学日本の建設に努力しなくてはなりません。此の科学精神を培ふスタートが児童算術です。私の愛児達が真剣に生命がけで研究した此の力!!と熱!!を忘れないで下さい。真剣なる生命の白光の燃焼しない、なまけ者の世界には、生甲斐ある人間の価値も、輝きも発見出来ないのです。
願はくは平和日本少年少女諸君として、立派なる真理研究の真剣なる歩みを今の瞬間から始めて下さい。
今といふ今!!今といふ少年少女時代!!は再びあなたの生の前には帰つて来ません。
永久に去る今!!を、永遠に忘れないやうに!!新算術正解 小倉金之助 序 山下兼秀 著 光文書院 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
「科学日本の建設」を名目としているが、書籍の目的とするところは読者に『合格だ! パスだ! と、きっと心のドン底から喜んで』もらうためだと巻末で素直に書いている。
変わった意図としては、学問を実質的なものとしようとする意図を持つ人々であった。
日本の大学では学部、学科の別が余りにも判然として居り、同時に二つの学科、学部に籍を置いて勉強すると云ふことが実際上出来ないやうになつてゐます。そのために、両学科の中間に属する様な学問は教育が充分に行はれず、従つて、その方面の進歩が後れる恐れがあるやうに思ひます。生化学もその一つの場合です。大学の化学科を出た人は生物学的教養の不足の為に、動植物学科を出た人は化学的教養の不足のために生化学の研究には色々と不都合を感じてゐます。又、それ等の人が教育に当つてゐる高等学校等では生化学は正しくは教えられてゐないと云ふのが現状でありませう。それのみならず、「生物化学」「生化学」と云ふ標題を持つた書物には、生体成分の有機化学を扱つたものや、医学学修の予備知識としての化学の教科書等が少くありませんので、私は、生化学とはどんなものでなければならないか、と云ふことを成る可く易しく書いてみたいと思ひたちました。この小冊子はその計画の最初の現れであります。
終りに私と常に研究を共にして居られる八木康夫理学士を始め村上枝彥、佐藤了両理学士の助言に負ふ所多いことを附記して謝意を表します。
昭和21年1月名古屋にて江上不二夫生體の化学 江上不二夫 著 大日本出版 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
教科書の前書きだが、大学制度への批判文となっている。
学部・学科の区分が硬直しているため、中間領域の教育が成立しない。学位を得た人間がやがて高等学校で教えることになるから、次の世代にも伝わらない。そのような領域の「一つ」が生化学だ。「生物化学」「生化学」と題した本はあるが、中身は生体成分の有機化学だったり、医学進学のための化学である。名前は存在しているが実体はない。この本は「生化学とはなにか」ではなく「どんなものでなければならないか」を示すために書かれている。「成る可く易しく」書かれた「この小冊子」は、「どんなものでなければならないか」を理解してもらうための「計画の最初の現れ」だ。「常に研究を共にして居られる」共同研究者に謝意を表しているところも、権威として振る舞わない姿勢を感じられる。この後、江上は生化学を牽引する人物の一人となった。
このように様々な意図があった。それでも子供や若者が学ぶための環境を、一刻も早く整えなくてはという思いがあったことは確かなのだろう。
子供を保護し良く育てたいというのは本能的なもので、このような動きは自然なことなのかもしれない。しかし敗戦というのは異常な状況だ。民主主義と科学立国に熱狂する大人たちは、これで復興することに決めている。当然ながら子供たちにも、その二つを伝えようとした。その語り口は、時に大人に向けるものよりも率直である。
『新しい日本史』は、その典型例だ。
はじめに
今まで日本の国を治めてきた人々は、自分たちが国民をおさえてゆくのにつごうのよいように日本歴史を説いて、それを民に信じてませるようにしていたのです。
ことに戦争中は、日本人だけが神様の子孫で、世界第一等にすぐれた民族であつて、日本が世界中を支配することが先の神様のみむねにかなっているのだと教えて国民に戦争をさせたのです。このような考え方は日本がたとえ戦いに勝っても負けてもまちがつていると思います。
世界中にはたくさんの民族がありますが、どの民族も優れたところもあれば劣ったところもあります。それはちょうど人間はどんな人でもと長所とをもつているのと同じです。その民族が作っている社会のしくみが悪ければ悪い人々が勢力を占めて全体を悪い方へ導いてゆきます。そして全体が世界の憎まれ者になります。
社会のしくみがよければ文化も栄え世界の進歩に役立つこともできるのです。世界のどの国にも社会をよくしようとして苦しい努力を続けているたくさんの人々がいます。私たちはまず日本が今までのようなあやまちを犯さない国にするために手をとり合つて力を尽さねばなりません。そしてさらに他の々のよい志をもつた人々と固く結んで人類の社会から戦争や、貧乏や、弱いものいじめや、野蛮をなくして、平和な世界をつくるために努力したいものです。
日本をよくするためには日本のほんとうの歴史を知らなければなりません。そして日本を今日の結果に導いた原因をつきとめて、それをなくするように努力することが何よも大切だと思います。
おわりに
連合国の指令で新しい平和な民主々義の国になりかわるに邪まになるような今までのしくみはすべて改められて行きつつあります。国民の生命を二足三文に考えて戦争へ戦争へと全ての精力を使って来た軍部、多くの人々の貧困を何とも思わないで自分の利益のためにその侵略を後押しした財閥は、連合国の指令によつて完全に形をなくしました。
そして、この軍部や財閥が侵略を行うために、国民を死地に投げ入れるために使って合言葉「天皇のために」の天皇は自ら人間であることを宣言されて国民の中に入りて来られました。現神(あきつかみ)などという人間が何か分らないようなものではないのです。新しい憲法が出きて国家の主権は人民にあることがはつきりさせられたのをご存じでしょう。
しかし、形がどんなに民主々義になつても中味がつり合わないでは困ります。その中味をつり合うようにするのは私たちです。明治維新のときもそうでしたが、古いしくみの中で甘い汁を吸ってきた人々は、何とかして新しものを打ちこわそうとするものです。私たちはそうしたものに真けんにぶつかって行つて、もう二度とこんなみじめな有様にならないようにつとめなければなりません。新しい日本史 日本史研究会 (1945年) 日本科学社 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
科学思想がなかったから戦争に負けたという主張はいくつもあったが、ここでは「日本がたとえ戦いに勝つても負けてもまちがつている」といい切っている。民族に優劣はない。社会のしくみが悪ければ、悪い人間が勢力を占め全体を悪い方へ導く、だから直すべきは心ではなく構造というのも明確だ。そういう構造を作ろうとする人がいるのだから、そうならないように、日本のほんとうの歴史を知り、敗戦の原因をつきとめなくてはならないと、子供に率直に語りかけている。明治維新を例に出し、古いしくみで甘い汁を吸ってきた者は新しいものを打ちこわそうとするというのは、軽い未来予想で、残念ながらその通りになった。
この文章は立派なものだと私は感じている。本人もこれを書いた瞬間には、本当にそう思っていたのだろう。しかしこの人は年齢を重ねるうち、仕組みの中で利益を得るようになり、新しいものを打ちこわそうとする人になる。人間は変わってしまうのである。
接続はしていたけれど
ここまで見てきた民主日本や科学立国の気分は、敗戦によって突然生まれたものではない。戦前からしっかりと接続されているのである。
戦前の日本には、次の三つがあった。
- 迷信打破と合理性の追求
- 平等主義
- 無駄な熱狂、過剰な反応
この三つがどう作用するのかを、敗戦から少し離れた事例で見ておきたい。
戦前の日本では、明治から昭和の戦中まで、何度か早起きがブームとなった。労働時間が長ければ生産性が上った時代には、早く起きて仕事をするというのはよいやり方だった。もうひとつ、近代化のために必要な、時間に合わせて行動するという様式の普及にも、早起きは貢献した。
この現象で上の三点がどう作用したのか。
「無駄な熱狂」によって、朝の3時にラッパを吹き、近所の人を全員起こす人が出た。エスカレートしていって大正七年には、朝の三時にラッパを吹き鳴らし、村人を怒らせる青年が出た。(早起 山本, 滝之助, 1873-1931 洛陽堂 大正七(一九一八)年(https://dl.ndl.go.jp/pid/933030/1/139))
悪いことに早起きレジェンドとして知られた石川理紀之助翁は、午前一時に起床する。彼は村の再建請負人のようなこともしており、依頼された村の事務所では、朝の一時に板を打ち鳴らして所員を起床させ、学生は三時に起すという人物である。石川翁は朝一時だぞ、三時起床くらいはなんでもないといった理屈が通ってしまうのである。(早起)
そして「平等主義」だから偉い人も起床する。様々な人々が法螺貝やラッパで近所の人を起床させていたが、ついには「合理性を追求」し、サイレンを導入する村が出た。
サイレンで黎明に起床し、冬は五時、夏は四時、田植時は三時に、役場のサイレンが鳴り響きますと、村民残らず起床し、村長宅の前に集って、それぞれ手分けして共同害虫駆除作業に出動します。
この協力を見よ : 優良実践網の諸例 国民精神総動員本部 昭和一五(一九四〇)年 p34[URL補完待ち]
現代の目でみると同調圧力にみえるかもしれないが、どちらかといえばサイレンは目覚まし時計の民主化だ。イベントの少ない村で、サイレンが建てられたら全員盛り上がるのが当然だ。「隣村の奴らが朝の5時に起きてやがるらしいな、それならこっちは4時だ!」といった熱狂も普通に起きる。仮に近所に誰もが使用可能な瞬間移動できる謎の機械が設置されたら、多くの人が目茶苦茶移動するのと同じ行動原理だといえる。
もうひとつ、私自身も事実なのかどうか、確信を持てない事例を紹介したい。明治時代、甘やかされて育った華族の貧弱な子供は、通常の学校生活には耐えられないので、学習院に進学するという暗黙の了解のようなものがあった。これを利用して、平民の子供が通常の中学ではなくあえて学習院に進学すれば、周囲のレベルが低いため、労力をかけず帝大に進学が可能という受験攻略法が存在した。実際、明治の進学案内には、学習院に入学すれば余裕で帝大に行けるということが書かれている(官公私立諸学校改訂就学案内 上村貞子 博文館 明治三七(一九〇四)年 https://dl.ndl.go.jp/pid/812652/1/22)。
確かに欠員が出れば、平民も学習院に入学はできた。学習院から帝大という進学ルートも存在している。実際にこんなことをした子供がいたかどうかは別にして、理論的には実現可能な方法で、少なくとも同時代の諸外国には、貴族の子弟が通う学校に意味不明の子供がもぐり込める環境はない。が日本は「平等主義」だから、平民の子供が学習院に入学しても、なんら不思議はないのである。圧倒的な平等さだといえよう。制度をハックして帝大に入学するのは「合理的」で、立身出世熱という「無駄な熱狂」によって、手段を選ばず目茶苦茶する子供が出てくるのも当然というように、これらが圧倒的な平等さの後ろ盾になっていて、結果的に社会階層の移動が起きたという状態だ。
自由は分からない
日本には過剰な平等はあったが、自由はあまり理解されていなかった。その結果、民主主義で自由なんだから、なにしてもいいんだという人も出た。
自由民主といふことを無規律放縦の意に誤解ないし曲解し、各自が身勝手な振舞をして顧みないといふ悪風の瀰漫するのを見るのである。
救國自治の提唱 津久井龍雄 玄同社 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
民主主義がギャグとしても扱われたことに軽く触れたが、1949年の教科書には中学生が民主主義を盾に、暴れまくる問題が取り上げられている。
民主々義だ民主々義だと身勝手なことばかり言って、他人の立場など考えない人があります。如何に民主々義とは言え長幼の序もあれば職務の上での差別があります。人間としての礼儀を忘れてしまって、いがみあっていたらまるで動物のけんかと少しもちがわなくなります。
新制中等國語. 1年生用(2) 大木信夫 著 新興出版社 昭和二四(一九四九)年 国立国会図書館デジタルコレクション ↗
このように自由の理解と扱いは雑であった。
福沢諭吉は『学問のすすめ』で、自由と我が儘の違いは、他人に迷惑をかけるか否かにあるとしている。自分の金を使い大酒を食らい放蕩するのは、直接的には他人に迷惑をかけていないように感じられるかもしれない。しかしその行為を見た子供が、大酒を食らい放蕩することに憧れてしまう可能性がある。そして、彼らが大人になって、大酒を食らい放蕩し始めれば国力が弱まる。ここが自由と我が儘の境界である。これを正しく判断するためにも、学びが必要だ。国民が学問を修め、自由に競争し、自立自営の独立した生活を手に入れれば、日本も自立自営の独立した立派な国家となることができる……といった話だが、少し複雑すぎる。
平等については、「みな同じ」と単純にまとめることができる。しかし、自由は平等に比べて単純化することが難しく、自由の観念が届かない層が多くいた。頻出語の集計で「自由」が127件も登場し、「平等」がわずかに4件だったのは、この歪みがよく出ている。警戒されていた自由は解禁されて盛んに語られ、尊ばれ続けた平等は、いまさら語るまでもないものになっていた。
戦前からの三つの要素は、敗戦を経て姿を変えて存在し続けた。「無駄な熱狂」は民主主義の受容に向かい、みなが民主主義を口にした。「平等主義」は次に解説する「国民ひとりひとり」という言葉に姿を変えた。「迷信打破と合理性の追求」は科学立国に接続され、生活の科学化・合理化について戦中とほぼ同じことが語られ続けた。
ここで冒頭の問いに、少しだけ戻ることになる。敗戦直後の日本人は、植民地支配を反省してはいなかった。しかし別種の反省は存在している。科学的な精神が欠けていたから騙された、騙されたから負けたという反省だ。騙されたという反省は、明治から続く合理性を追求する雰囲気と結び付き、「自分で確かめる」ため『自分自身の力ですべてを実際に行つてみる』態度になった。
生活と科学と受験
科学的な生活とはなにか、大人は子供たちになにを教えようとしたのか、教える人々は戦前の誤った科学教育をどのように捉え、どう改善すべきだと考えていたのか、これを前書きから読みとると以下のようになる。
科学史家の菅井準一は目先の実用主義を批判し、新しい時代にふさわしい科学教育を語った。
- "目先き"の実用主義は、決してほんたうの科学教育を生むものではない
- 問題の奥行きと急所について詳しくふれ、立ち入つた理解に至るのが新しい時代にふさわしい科学教育
- 解説を見ないで、自分で取組んでみるという積極的な態度こそが、"科学的"な態度である
(重さの科学 菅井, 準一, 1903-1982 清水書房 昭和二一(一九四六)年(https://dl.ndl.go.jp/pid/1138922/1/6))
物理学者の中村清二は、戦前の教育観は酷く誤っていたとしている。
- 物理学では中学生に専門家を養成する「学」を授けようとした
- 高校生は進学のため記憶学科として扱った
- 物事を科学的に観察し判断する訓練はおろそかにされた
科学教育は「一般人士の常識の水準の向上を目ざして進むべき」もので、そのためには、「物事を科学的に観察し判断する訓練」をし、「各人が日常その身のまわりに親しく見聞きする事柄を物理的に観察し思索する習慣をつけるための一助」となるべきだとしている。これが理想であった。
『体験の物理』はもともと『身辺物理学』というタイトルで、昭和18年10月に執筆を開始、1年弱で書き上げたものの、昭和20年8月に戦災で焼失、疎開と病気とのために執筆できず、書籍の完成までに昭和22年5月から25年8月末日までかかった。彼がこの本を書いたのは、日常的な出来事から物理を体験し、味わう習慣をつけて欲しいからであった。(体験の物理 上巻 中村清二 河出書房 昭和二六(一九五一)年 https://dl.ndl.go.jp/pid/1369769/1/6)
このような方針で執筆された本は多かった。その一方で戦前から続く受験戦争があった。受験対策の参考書も大量に刷られた。
祖国再建の意気に烈々と燃える全国の学徒諸子よ!!敗戦を現実に経験した吾々は今必従蹶起して真に何を為すべきであらうか、それは言ふまでもなく我が日本をして永又の平和国家たらしめ、高度の文化を創り、遍く世界人類に貢献することでなければならぬ。(中略)同時に又近時激甚を極むるに至り特に物象科を重要視するかの如き上級学校入学試験を慮り、出来得る限り将来出題の可能性ある問題と其の解答を附じて諸子の実力養成に寄与しやがては入試突破の栄冠を保護するに万全をつくせるのである。
榮冠物象之研究 學習館 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
いち早く敗戦を受け入れ、新たな進路を目指す子供がいたということなのだろう。しかしこれは「出来得る限り将来出題の可能性ある問題」を重視し、科学を「記憶学科」として取り扱うことでもあった。
戦前から続く生活と科学の一体化という目標は接続された。しかし生活に根差した科学を学ぶための教育はなかった。それを作る余裕もなかった。
一方で受験の制度はあった。だから受験は高度化された。
この失敗は、当事者にも見えていた。理づめの精神を説き続けた富塚清は、子供向けの工作の本の中で、進学せずに工場で働きたいという武男と、それに反対する母、加勢する父の会話を書いている。
「今まではそりゃ資格が物をいったからね。日本はひどい形式主義だったものね、でもこれからは、日本だって、だんだんに、実力主義になるだろう。いつまでも外国の風に当らずに、封建のかみしもを着て通せるわけのものではないのだからね。」
「お父さんまで、そんなこといって、武男に、かせいするんですか?」
「いや、わざわざかせいというわけではない。物の道理さ。僕は、武男の思い通りやらして見るのも面白いと思うなあ。なぜって、僕は教育の内まくを知りすぎてるんでね。六・三・三制とか、カレッヂとか何とかいったって、今のところ、中身は昔からの口さき教育だものね。わし等の同類が死に絶えないかぎり、これは改まりっこないよ。これではね、骨折って大学まで出たって、大したことにはならないなあ。」僕の工作 : 動かす工夫 富塚, 清, 1893-1988 さ・え・ら書房 昭和二三(一九四八)年 前書きを読む
学制は変わったが「中身は昔からの口さき教育」のままだと、教育の内幕を知る人間が児童書に書いた。富塚が子供向けの本に込めた狙いは、次のようなものだった。
ねらったことはたゞ一つ、「理づめに、よく考へ、実際にしらべ、たしかめて、物をやつて行く気持」(合理、実証の精神)を吹きこむことさ。うそもかくしもない。種はたったそれだけさ。
おぢさんの冒険 富塚清 進路社 昭和二三(一九四八)年 前書きを読む
富塚たちの本を読み、合理と実証の精神を身に付けた子供はいたはずだ。学ぶことと生きることを直通させて、復興に貢献した人々も多くいたことだろう。しかしそれらは個々人に起きたことで、制度にはならなかったのである。この話は、国民ひとりひとりに直結している。
国民ひとりひとり
『国民一人一人が考える』あるいは『自分の問題として考える』といった決まり文句がある。
「国民ひとりひとり」を明治時代の文献では見たことがない。使われ始めたのはおそらく戦中のことで、「国民ひとりひとりの体力を向上させ、貯金をし国力を高めて戦争に勝ちましょう」といった意味合いで使われた。敗戦後は滅私奉公が推奨された戦時中の反省から、国民の一人一人が考えた上で行動することが求められるようになった。具体的には次の前書きのような使われ方をした。
皆さん!日本にデモクラシーを実現するためには、日本人の一人々々が、貧富や年齢を問はず先づ正直で、勤勉で、親切で、礼儀正しい立派な人間になることが肝心です。そして日本人がめいめい理想を持ち、希望を抱き、責任を重んずる良い個人として鍛へられることが必要であります。
これが、いはゞデモクラシーの自覚であります。そしてこの自覚はつねに、個人の自覚から進んで社会の自覚となり、さらに国家の自覚にまで発展するところに、デモクラシーの輝かしい人類文明が存在するのであります。デモクラシーの勉強 中野, 五郎, 1906-1972 目黒書店 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
個人が正しくなることで、デモクラシーが実現できるといった意味合いだ。憲法もまた、立派な日本にするために、一人一人の血肉とすることが求められた。
この位立派な憲法は今のところ世界にないといつても過言ではあるまい。
然しいくら立派な憲法ができても憲法だけでは国はよくならない。
若しも良い憲法を依りさへすれば、良い国になるのなら、どこの国も苦労はしないであらう。
立派な憲法を国民の一人一人が自分の血とし肉として、日常の生活の隅々にまで、新法の精神が流れるやうになつたとき、はじめて立派な日本が生れるのである。新憲法の講義 大西八郎 公民敎育研究所 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
国民一人一人が考えて行動すればなんとかなる……なんとも楽観的で明るい思想だ。『あたらしい憲法のはなし 文部省 編 実業教科書 昭和二二(一九四七)年』は文部省による憲法の解説書だが、信じられないほどに明るく、そして正しさに満ち溢れている。
われわれは、人間である以上はみな同じです。人間の上に、もっとえらい人間があるはずはなく、人間の下に、もっといやしい人間があるわけはありません。男が女よりもすぐれ、女が男よりもおとっているということもありません。みな同じ人間であるならば、この世に生きてゆくのに、差別を受ける理由はないのです。差別のないことを「平等」といいます。そこで憲法は、自由といっしょに、この平等ということをきめているのです。
そして『国民一人一人が考える』ことが強調される。
みなさんは日本国民のうちのひとりです。国民のひとり/\が、かしこくなり、強くならなければ、国民ぜんたいがかしこく、また、強くなれません。国の力のもとは、ひとり/\の国民にあります。そこで国は、この国民のひとり/\の力をはっきりとみとめて、しっかりと守ってゆくのです。
次の一文など、まぶしいくらいに明るい。
みなさん、あたらしい憲法は、日本国民がつくった、日本国民の憲法です。これからさき、この憲法を守って、日本の国がさかえるようにしてゆこうではありませんか。
ちょっと理想的すぎる上に、当時の政治的な状況も反映されているのだが、とにかく一種の名文であることは確かである。これは時代の雰囲気に後押しされたからこそ、書けた文章に思えてならない。
もうひとつ『民主主義 文部省 編 教育図書 昭和二三(一九四八)年』の一文も掲載しておく。ここでは過去の日本人の態度が批判されている。
人間が自分自身を尊重するのはあたりまえだ、と答える者があるかもしれない。しかし、これまでの日本では、どれだけ多くの人々が自分自身を卑しめ、権力に屈従して暮らすことに甘んじて来たことであろうか。正しいと信ずることをも主張しえず「無理が通れば道理が引っこむ」と言い、 「長いものには巻かれろ」と言って、泣き寝入りを続けて来たことであろうか。それは自分自身と尊重しないというよりも、むしろ、自分自身を奴隷にしてはばからない態度である。
そして『あたらしい憲法のはなし』と同じく、ひとりひとりが自分で考える重要性が語られる。
手を変え、品を変えて、自分たちの野望をなんとか物にしようとする者が出て来ないとは限らない。そういう野望を打ち破るにほどうしたらいいであろうか。それを打ち破る方法はたは一つある。それは、国民のみんなが政治的に賢明になることである。人に言われて、その通りに動くのではなく、自分の判断で、正しいものと正しくないるのとをかみ分けることができるようになることである。民主主義は、「国民のための政治」であるが、何が「国民のための政治」であるかを自目分で判断できないようでは民主国家の国民とはいわれない。国民のひとりひとりが自分で考え、自分たちの意志で物事を決めて行く。
現状を考えると国がこんなことを主張しているのは不思議な気がしてくるが、とにかくこのように能天気なまでに個人が学習し正しく判断できると信じられた時代があった。
注目すべきなのは、これらが過去との対比から割出された発言だという点だ。「権力に屈従して暮ら」してきたからあのような悲劇が起きた。だから「国民のひとりひとりが自分で考え、自分たちの意志で物事を決めて行く」必要がある。そのためには「第一に自分自身の力ですべてを実際に行つてみることが必要であ」り「自分でも独力でさぐり出せる能力がついてれば、これと反して「ここは怪しいぞ」ということもかぎ出せますし、応用するときの手心がわかって大きな無駄はしないですむ」という理屈である。
ただし国民ひとりひとりには大きな弱点がある。一種の流行語となった一億総懺悔も、一人一人が反省することだ。
戦時中には国民の一人々々が、誰も彼もが領土の拡張、大和民族の発展、豊かな資源を幻に描き、誤れるイデオロギーに没我的に成って指導者に協力したのみならず、自ら率先垂範、積極的行動を取った者も其の数少しとは決して云へないのであります。
選擧人への警鐘 : 民主政治への初の總選擧に於ての投票指針 ヌミネ社 ヌミネ社 昭和二一(一九四六)年 前書きを読む
批判が原因そのものに向かうのではなく、国民全体に分散して向かう構造がよく現れている。そして「一人一人が考え」たことを集計し、精査する仕組みは作られなかった。反省は分散されたまま個別に存在し、民主主義はあやふやな理解に留まった。これらはシステムにはならなかった。ここでも生活の科学化と同じことが起きた。
「ひとりひとり」で似た事例がひとつある。一人一研究である。
昭和初期に山下信義が提唱したもので、人類一人につき一つ研究課題を持つことによって、文明を進化させるというものである。敗戦後、山下は次のようなことを書いた。
自己の天賦個性に鑑み、事情境遇から割り出して何か一道、之だと言うものを選み出し、それに向つて全精力を傾倒するのだ。之を一人一研究という。
旧時代にもすぐれた一人一研究があつた。けれどもその多くはたゞ自己の為にする一人一研究であつた。だから秘伝となり口伝となり一子相伝となつて天下の役には立たなかつた。新時代に於ける一人一研究は始めから祖国の為、郷土のための一人一分担である。新日本建設と新郷土建設 [山下信義] 江原先生記念運動委員會 昭和二三(一九四八)年 国立国会図書館デジタルコレクション ↗
研究成果の提出を強要する校長などもいて形式主義に流れることもあったようだが、この運動は農業の分野で、生産の向上と新しい技術の普及に貢献した。一人一研究の課題として作成された郷土史研究の存在も確認することができた。残念ながら一人一研究の集大成のような書籍を見つけることはできなかったが、地方文化の発展に貢献したことは確かである。ただしこちらも、研究手法が習得できる仕組みなどは作られず、自由研究へと収束していった。進学率が上ってくると「自由研究を入試の負担になると考える」高校生がでてきた。
これを書きながら思い出した文章がある。中江兆民の「日本に哲学なし」だ。最後に関係ありそうなところを要約しておこう。
『我々は物事の理屈に明るく、時代の流れに乗って上手く移り変わり、頑固なところがない。だから明治維新も、ほとんど血を流さずに成し遂げられ、三百の諸侯は先を争って領地と政権を差し出した。古い風習をあっさり捨て去り、西洋風に改めるのにも躊躇がなかった。これも我々が、理屈が通り変化を恐れぬ柔軟さを持っていたからできたことだ。これらの美点を裏返すと、浮ついた軽薄さになる。意志薄弱で実行できないという弱点になる。自前の哲学は作れず、政治に主義はなく、政党争いに継続性がない原因になる。小賢しさと小手先の器用さにとどまって、偉業を打ち立てることができない理由もここにある。常識に富んでいるからこそ、常識を超越することができないのである。』
兆民はこれを書いたのは明治34(1901)年である。1945年にも明治維新と同じことが起きた。自前の哲学がないから「この位立派な憲法は今のところ世界にない」と書ける。主義に継続性がないから、今日から英語の時代だと大喜びできる。常識を超越できないから、焼跡で本を刷る。兆民が欠点として並べたものは、そのまま復興の条件でもあった。説教くさくなりそうなので、これを裏がえすのはやめておく。
それでも本は出た
戦前と戦後は断絶しており、ゼロから再出発したというようなことが語られることがあるが、それは少し無理がある。戦前と戦後は強く接続されている。「一億総懺悔」ですら、戦中からの接続なのである。
もともと私は反省を探すために、前書きと後書きを読み始めた。探していた形の反省……植民地支配や侵略戦争への加害の反省……は、見つからなかった。かわりに見つかったのは、悲しみと恐怖の上に立つ奇妙な明るさ、民主主義と科学という新しい看板、子供への期待、そして「騙された自分たち」への内向きの反省だった。復興は反省からではなく、期待から始まっていた。
これは当たり前の結論で、冒頭に書いたように、原稿も紙型も印刷所も燃えた中で、人々は本を出した。記憶を頼りにパンフレットを書き上げた者がいて、託された原稿を守り抜いた者がいた。焦げた表紙の童話を抱える子供のために、物語を書き上げた者がいた。なにを思っていたにせよ、書いて刷って世に出すという行為は共通している。虚脱している人間に印刷物は出せない。この時期の出版物は、それ自体が生存と期待の証明なのである。
大量の資料を読み私が思ったのは、沢山の人が生きていたという単純なものだった。これは偏った資料群を、私の主観というフィルターに通して生れた感想だ。だからこのサイトには、私の解釈だけでなく、データと原文への経路を置いておいた。疑わしいと思ったら、リンクの先で原文を読んでほしい。私と違うことを思うかもしれないし、思わないかもしれない。