私の平和学習

2026-04-17

中江兆民の「日本に哲学なし」現代語訳

わが日本には、昔から今に至るまで哲学がない。

本居宣長・平田篤胤の門流は、古いことを研究する一種の考古学者で、天地の理や人間の本性、そして生命の原理などなどについては、全く見当がついてはいない。伊藤仁斎や荻生徂徠の門流は、経典に新しい解釈をもたらしたことはあるが、結局のところ経書を研究する人々だ。仏教の僧侶の中には独創性を発揮して一宗を開いた者もいる。しかしそれは宗教の世界のお話で、彼らを哲学者とすることはできない。

近ごろは加藤某(加藤弘之)や井上某(井上哲次郎など)が哲学者と称していて、世間もそれを認めている。しかし彼らは西洋の論説の輸入業者にすぎず、哲学者と呼ぶに値しない。

そもそも哲学の効果は、はっきり分かるものではない。貿易が黒字か赤字か、金融は健全か、商工業の景気はどうだ、これらは哲学となんの関係もないように思える。しかし国に哲学がないのは、ちょうど床の間に掛け軸がないようなもので、間が抜けていて国の品位を貧弱なものにする。カントやデカルトはドイツ・フランスの誇りであり、床の間の掛け軸だ。この掛け軸が、両国民の品位に関係しないわけがない。

こんな雑談なんてどうでもいい話だといいたいところだが、残念ながらどうでもよくない話だ。哲学のない国民は、何をやっても深みがなく浅薄になるからである。

海外の人々と比べると、日本人は物事の理屈に明るく、時代の流れに乗って上手く移り変わり、頑固なところがない。これが日本の歴史に、悲惨で愚かな宗教戦争がなかった理由である。明治維新も、ほとんど血を流さずに成し遂げられ、三百の諸侯は先を争って領地と政権を差し出した。古い風習をあっさり捨て去り、西洋風に改めるのにも躊躇がなかった。これも日本人が、理屈が通り変化を恐れぬ柔軟さを持っていたからできたことだ。

これらの美点を裏返すと、浮ついた軽薄さになる。意志薄弱で実行できないという弱点になる。自前の哲学は作れず、政治に主義はなく、政党争いに継続性がない原因になる。小賢しさと小手先の器用さにとどまって、偉業を打ち立てることができない理由もここにある。常識に富んでいるからこそ、常識を超越することができないのである。これらをなんとかするには、今すぐ教育の根本を改革し、死んだ書物から学んだ学者でなく、生きた知識で創造できる市民を作り出すしかない。

今の日本をこのままにして、徐々に改良していくか、今すぐ大革新を行って、ヨーロッパ国家のひとつとしてしまうのか。これは現在の国政を担う者が、胸中でしっかりと決着をつけなくてはならない大問題だ。

しかし予算に苦しみ、議会対策に追われ、閣僚の意見調整に奔走する爵位を持った為政者たちには、こんなことを考える余裕はない。夢想すらできないことなのである。