私の平和学習

2026-05-29

世界対抗戦争反省大合戦が勃発したら日本が勝つ可能性がある

反省を計測しようとすると、何を測ればいいのか分からなくなる。

諸事情があって戦争を反省することについて考えている。

それでどこの国が戦争を最も反省していますか? とAIに質問すると「ドイツです。理由は………」という解答を生成する。つまり世界対抗戦争反省大合戦が勃発したら、ドイツが勝つと予測されているわけだが、ダークホースの日本もなかなか強く、まかり間違えるとドイツを打ち破り優勝をする可能性すらある。

仮に世界対抗反省大合戦を開催するとして、なにを基準に反省を計測するのか。

偉い人が謝罪したら反省だ! という単純な考え方を採用することはできない。大統領に謝罪されても、私はなんだこいつ?と思うだけである。みんなもいきなり大統領が謝罪のために家に来たら、なんでもいいから帰ってくれと思うと思う。あとこの基準だと、反省大合戦に勝利するため、議員を集め土下座を決行する国が出るかもしれない。どっかの山村の98歳の長老(村では超偉い)を引っ張り出す国もあることだろう。この場合、議員10人と大統領1人ではどちらのスコアが高いのか、村の98歳の長老と政治家ではどちらが偉いのかといった問題が出る。このような曖昧な基準は不採用一択だといえよう。

「反省している人の数x反省の質」で勝負するのはどうかというと、こちらも問題が多い。確かにその国の人の八割くらいが、あれはこれこれこういう理由でああいう行動に至ったので反省していますと考えていたら、納得できる。しかしそのような状況にある国など存在しない。一切反省していない奴らをどう処理するのかもよく分からないし、計測するのも面倒くさい。これも不採用だ。

反省の深さも駄目だな。深さってなんなんだよって話になると思う。仮に戦争再発を防ぐため静かに過去を顧みて、深く知的作業を行う人を押す国がいたとして、反戦平和ショルダーを出す国が出たら敗北は必至である。

反戦平和ショルダーとは何者か? 起床直後に水垢離し、曾祖父さんが植えた大木に土下座し「本日も生存させていただきありがとうございます!」と絶叫、平和を願い大木に1000回ショルダーアタックを喰らわせる。ご近所の人気者で、窃盗犯をショルダーアタックで掴まえるなどの平和活動もしているが、感謝状は固辞し続けている。ショルダーの大木は曾祖父さんが戦地に行く前に植えたものだが、曾祖父さんは帰ってこなかった。しかし曾祖父さんもまた、戦地で加害をしたことだろうから、一族の贖罪と鎮魂のためにショルダーアタックをしているわけだが、エスカレートしていって最終的に死人が出そうなのでこの基準も却下。

結局のところ反省を数値化するのであれば、大きさと数、あとは速度を基準にするしかない。目茶苦茶な基準だが、あえて思考実験として考えると、日本は世界有数の反省大国になる。

前提として日本政府の反省は弱い。貧弱である。ドイツが来たらボロ負けする。しかし民間が圧倒的に強い。

まず大きさ、反省を具現化したもののひとつにオブジェがあるので、その大きさを反省スコアとして評価する。世界一高いといわれるサンジャシント記念塔は172.92mだが、PL教団の超宗派万国戦争犠牲者慰霊大平和祈念塔は高さ180mに及ぶ。世界一高い記念塔よりも超宗派万国戦争犠牲者慰霊大平和祈念塔のほうが高いのだから、この分野では日本の反省は世界一ということになる。

超宗派万国戦争犠牲者慰霊大平和祈念塔は、慰霊する範囲も圧倒的で『歴史上のあらゆる戦没者の霊を人種、民族、国家、国境、地域、また宗教、宗派、信条などを問わず慰霊と鎮魂』を目的としている。大きさで日本に勝利できる国はないといえよう。一宗教の建てたものと切り捨てる者もいるかもしれないが、この塔をみて「数知れぬ 戦争犠牲者この塔に すべてを超えて 永久にしずもれ」と歌った老人がいる。少くともこの老人の反省は本物である。

数ではどうかというと、ドイツには「つまづきの石(シュトルパーシュタイン)」は10万個を超え、他国を圧倒している。これは勝てない。しかし日本もある時期に自費出版がブームとなり、世界平和のためにワシが戦争のことを書き残すといった老人が続出している。侵略を反省する要素を含む自分史の数なら日本はかなり強い。平和教育がらみだと、無理矢理書かされた作文の数や千羽鶴の数はかなりのものになるだろう。ただし千羽鶴については、海外からも届くので保留といったところであろうか。

それに加えて慰霊ツアーのブームもあり、この時期には地元の人に直接謝罪をする老人が続出した。慰霊ツアーに参加した人数でいうと、日本はおそらくトップだ。そしてこのツアーで建立された慰霊碑の数もかなりのもので、フィリピン国内だけで400以上、他の国も含めると相当の量になる。つまり数でも、日本は世界トップクラスで反省しているといえよう。

慰霊ツアーがどのようなものであったのか、ひとつ実例を挙げよう。

私はこのジイさんたちが異常に好きで、万が一叩かれたら嫌なので、あえて引用元は公開しないが、1991年に、最年少68才、最年長80歳、総勢17名の老人が、中国の戦地を八日間かけて巡る慰霊ツアーを決行した。旅行に先立って開催された壮行会で、ジイさんはみなに今回の慰霊ツアーの趣旨を話した。長いが以下の通りである。

私達は好むと好まざるに関わらず兵隊として、引っ張られて中国の最前線で死ぬ様な目に会い、又多くの戦友達を失い、或いは負傷したりして苦労を重ねて来たけれども、私達以上に中国の人達は家を焼かれ財産を失い又家族離散と言う苦しい目に会わせて来ている。私も今迄四回も中国の現地を訪ねて居るが、一度も日本兵だと言った事はない、勿論向こうの人達は察して居た様だが、今度ははつきりと旧日本兵の生き残りだと名乗って行こうと思う。

そして私達が駐屯していた部落には日本酒を一升か二升、子供達には飴とチョコレートを沢山持って行って配ろうではないか。そしてはっきりとお詫びの言葉を申し上げ様ではないか。恨みを呑んで死んで行った戦友の事を思えば、中々頭を下げる訳には行かないかも知れないが、あの中国側の武功祠(日本ならば靖国神社)も参拝して、南門では横田大隊長以下の戦友の慰霊祭も、執り行なって来たいと思うがどうでしょうか、まさか長沙で棍棒で頭をぶん殴られる程の事も無いと思う、この前長沙へ行った時、中国側のガイドさんが武功祠を参拝して下さいと、わざわざ武功祠の前で停車してくれたのに、だれ一人として参拝する人はいなかった。その気持ちは痛い程同じ戦争をして来た者として判るが、戦後半世紀経った今こそ旧中国軍人とも手を取り合って話しをする時では無いだろうか。

そしてあの武功祠を参拝してその前で頭を下げて、私達が殺した中国兵の冥福も祈ろうでは有りませんか。

彼らが武功祠を参拝できなかったのは、死んでいった仲間への思いが強かったからだ。今では分かりにくい感覚だが、例えば同じ戦場で命を落した仲間や特攻隊で死んでいった友達が、侵略者であったということを感覚的には受け入れることができない人が多くいた。つまり彼らは仲間のためにも、私が謝るわけにはいかないと考えていたわけである。こういう感覚が存在したことは事実だが、今の人が理解しなくてはならないものではない。あったのかと思っておけば十分だろう。

とにかくこのような感覚を持っていたため、主催者の話を聞いた参加者たちの間に「一瞬沈黙が流れた」。そのうち酒で勢いがつき始め、最終的にジイさんたちは口々に「賛成! 賛成!」と叫び出し、綺麗に話はまとまってしまった。雑である。

彼らは現地で菓子と酒を配り、謝罪をした。ただし、途中でトラブルもあった。

「俺はあの時、日本兵に傷つけられた」と貧相な親父が人込みの中から飛び出して来て、一行の中のxxxxさんに食って掛かった。中国へ行った経験の無い、xxさんは慌てて、東濃弁で、「何やよん、俺は何も知らんで」
其処へ公安官らしき男が飛んで来て、宥め乍ら人群れ後ろの方へ連れて行った。

一人の老女がとりなす様に。

「あの人は頭がクルクルパーだ」

と言う様に指を頭の上で回して掌を頭の上でパッと広げて見せた。

慰霊と謝罪旅行で直接糾弾され「知らんで」とクルクルパーで済ましているのもすごいが、菓子や酒を配って謝罪しようといった考え方も、独善的で相当に雑である。ジイさん集団の謝罪に押し付けがましさを感じたことであろうが、中国の市長や県庁職員たちは、気を使いながら謝罪を受け入れ、子供は無邪気に菓子を食べた。そして、老人たちは武功祠で中国の人々の冥福を祈った……というに慰霊ツアーには一定の謝罪が含まれていた。

最後は速度、ここでも日本は圧倒的な強さを見せ付ける。

東久邇宮内閣が任命される際の臨時会議で、当時86歳の尾崎行雄が『文化と戦争は両立し得ざるもの』で、「台湾朝鮮満洲の如き武力を背景として得たる地域は他国の容喙を待たず、我より進んで之れを開放し住民の自由意志に依つて其の帰属を決定せしめる」というような意見書を提出している。反省の強度としては弱いが、86歳の尾崎が高速で動作していることに驚きを抑えることができない。

尾崎を上回る速さを誇る上に、数と深さを兼ね備えているものが盆踊りである。盆踊りの本質は鎮魂で、鎮魂のためには過去を思わなくてはならない。

その年は、全国つゝうらうらに、熱に浮かされたように、狂燥的な盆踊りが戦争の挽歌に変つた。

労働運動見たまま 第1集 労農記者懇話会 時事通信社 昭和二二(一九四七)年 1947 < 国立国会図書館デジタルコレクション ↗

終戦後、田舎では都会と比べれば食べ物があった上に、青年団が機能していたため、各地で盆踊りが開催された。もちろん反応はまちまちだ。

盆踊りの太鼓の音が、八月が過ぎ、九月に入つてからも尚しばらくつづいた程で、農村の人々は二百十日もこと無く済み、久しぶりの豊年が保証されたので、多年の戦中忍苦から一度に解放され、敗戦も何のそのただもう浮かれに浮かれてゐた

文壇 1(2) 前田出版社 前田出版社 昭和二二(一九四七)年 < 国立国会図書館デジタルコレクション ↗

当たり前のように、いい加減で能天気な人々もいた。

終戦からなん日かたって、もうなにをしてもいいっていうんなら、ひとつ、長いことできなかった盆踊りでもやろうと、だれかがいいだして、青年団が中心になって、村の神社から太鼓借りだしてきて、少し遅れの盆踊りをやった。〝俺は河原の枯れすすき〟だとか、鈴木主水という侍が……という〝八木節〟〝大利根月夜〟なんてのを繰り返し踊ったね。団長が喉がよくってね、しかも男前で、女っ子たちがそっちにばかり行っちゃうので面白くなかったことを覚えている。しかし大人たちは、一人もこなかったな

昭和六年生まれ : わが世代 河出書房新社 河出書房新社 昭和五四(一九七九)年 1979 < 国立国会図書館デジタルコレクション ↗

「俺は河原の枯れすすき」であったとしても、鎮魂は鎮魂だ。陽気な盆踊りが開催される一方で、中止になった地域もあった。

昭和十二年の日華事変突発から、いはゆる非常時体制がしかれるようになり、つづいて太平洋戦争へ突入して盆踊も以前の華麗さを失つたが、なお細々と続けられたところもあつた。やがて敗戦となつて盆踊は一時中止のやむなきに至つた。

昭和大阪市史 第7巻 (文化篇) 大阪市 大阪市 昭和二八(一九五三)年 < 国立国会図書館デジタルコレクション ↗

樺太野田では、8月15日の夜に寂しい盆踊りが開催された。女教師の工藤は学校で敗戦を知り「職員一同その場に声をあげて泣いた」。その帰路、盆踊りと出会わした。「太鼓を打つ音も力なく、人の輪だけがうつろな面持ちで揺れていた」。工藤の「頭の中もからっぽであった」。ただ盆踊りを眺めた。

これが反省なのかといわれれば、慰霊であり反省だという答えになる。

盆踊りに参加する人々の思いは様々だった。酒を飲み美味いものを食べて、唄って踊り楽しいだけの人もいただろう。楽しく踊るうち、喪失したものを思い、泣いてしまった者もいたはずだ。閉鎖的で複雑な時代だ。日本を下に見て、参加しない移民もいれば、参加を拒絶した日本側のコミュニティもあっただろう。今も昔も色々な人間がいる。

しかし盆踊りは平等だ。その土地で亡くなった人々を、選ぶことなく鎮魂する。盆踊りから念仏踊りまで遡れば、場所など遥かに遠く置き去りにしてしまい、時空間や血縁を越えて全ての魂を救う祈りとなる。

このように大きさと数、速度という基準で判断すると、日本はかなり戦争を反省しているということになってしまうのである。

仮に戦争反省大合戦が開催され、他の国が「お前らは反省していない」と攻め込んできたとしても、日本は「数か? 早さか? 大きさか? どれで勝負する? 選ばせてやるから早くしろ」と言い放つことができるわけだが、数や大きさ速度で反省の度合いを決めるというのはかなり失礼な話だ。反省の向こう側には被害者がいて、反省する者もまた被害者だということは、当たり前にある。

また盆踊りについては、たまたま8月15日に敗戦したから最速の反省が起きたにすぎない。4月ならば別のイベントが開催されたはずで、偶然でしかない。偶然で勝敗が決まる勝負に、意味などない。

私はなぜこんなことを書いているのかといえば、今は紋切り型の批判「日本は侵略戦争への反省がない」について考えているからだ。

「日本は戦争を反省していない」的な言説を、私が初めて聞いたのは平和教育だったと思う。いやいや反省はしているでしょといった感想だったが、子供なので言語化することは難しかった。今は「反省がない」という言説は、なにも考えてない者の発言で、反省という曖昧で他人の心の奥底に踏み込みかねない言葉を安易に使うことは、知的怠惰の結果ではないかと考えている。

私が「反省がない」という言説に嫌悪感を覚えるのは、反省した人の文章を読み、その人がいることを知っているからだ。私は今年に入ってから、1945年後半から1946年10月あたりに出版された書籍や雑誌を160000ページほど読んでいるが、当然のように反省している人間は大量に存在している。「反省がない」と言われると反射的に、なんでお前みたいな奴が他人の反省にケチつけるんだ? とついつい感情的になってしまうのである。

ただしこれは国内で生じる発言に対するもので、国外からの批判はまた別の話だ。外側から見た総体として、日本が「反省していないようにみえる」というのは理解できる。公的なレベルの話であれば、冒頭に書いた通り「日本政府の反省は弱い」。その一方で日本の内部ではこの様な反省が行なわれている。これをどう表現し、伝えればいいのか、私には分からない。

ひとつだけ言えるのは、反省は複雑だということだ。あの雑なジイさんたちは、「赤・白・黄色の花が咲き乱れ」る武功祠(烈士公園)で、「本堂に頭を垂れてお互いに苦しかった戦争を偲んだ。そして貴方達を殺して終って済まなかったと心の中で詫びた」。これは確かにひとつの反省で、この人たちが「私達が殺した中国兵の冥福も祈ろう」と思い、実行したことは事実だ。

彼らはその足で長沙南門へと向い、倒れた石柱に酒と煙草を供えた。一同は整列して合掌し、ひとりの老人が般若心経を唱えた。他の老人も心経を誦し、「門外に眠る多くの戦友達の冥福を祈」った。

これまでのツアーでは、ある種の後ろめたさや現地の人の心情、そしてトラブルが起きる可能性などを考え、現地で慰霊祭を行うことができなかった。しかし老人たちは中国の人々にお詫びの品を手渡しし、中国の兵士にも頭を下げたのだから、日本人の慰霊祭も行う権利があるはずだと考えた。

だから今回は「門外に眠る多くの戦友達の冥福を祈」ることができた。肩の荷が下りたと感じた老人たちは、中国人のガイドさんとの送別会もかねて、その夜はカラオケ大会を開催した。翌日老人たちはチップとしてガイドさんに一万円を渡した。ガイドさんは「印象に残る案内でした」と言い残し車で去った。

この反省はあまりに複雑すぎる。だから私が口を挟むところではない。