「終戦直後の日本」には、共有イメージがある。焦土、虚脱、一夜の価値観の転換、一億総懺悔。それを並べ、1945年6月〜1946年9月に実際に出版された本の前書き・後書きと突き合わせた。
見出しを押すと開きます
昨日までの「鬼畜米英」「神国日本」から民主主義へと、一夜にして世の中の価値観が180度転換したという劇的な変化。
ものすごい傷ついてたんじゃないのかな。
「百八十度の転換」当時の人たちが書いていた。ただし宣伝文句として使われている。
今や日本は長い間の戦争から解放され、平和日本建設のため、百八十度の転換をして、民主主義国家への建設へと突進しつつあります。したがつて、国民一人一人の生活にも亦、一大転換が行はれつつあるのは当然であります。
小泉正徳『自動車王クライスラーと二人の少年』オカニハ書房 1946 p.5 前書きを読む
今日、軍国主義から民主々義の平和文化国家へ、日本の生態と国民の生活は百八十度の激しい転換を遂げつゝありますが、日本の生きる道は、ボツダム宣言と降伏条項を忠実に実行して、平和を愛好する民主々義日本を実現する以外にはないのです。
久米真『エヂソン物語 世界偉人伝叢書 第三輯』星書房 1946 p.64 前書きを読む
一方で、転換したと思われたくない人もいた。教育者の小原國芳は、大正12年の自著をそのまま再刊するにあたって、わざわざ断りを入れている。
この書は大正十二年四月一日、丁度、今から二十三年前に刊行したものを、なるべく、そのまゝを出します。それは、決して、今頃、転向をしたり、迎合をしたり、阿諛したりしたのではないといふことを理解して頂きたいためであります。
小原國芳『自由敎育論』玉川出版部 1946 p.20 前書きを読む
そのまま再刊された本は少くない。印刷所が被害を受けていたため、新しい版下を作れないといった事情も大きいが、小原のように戦前から私は変っていない、一貫して正しかったのだと主張をしたい人もわりといた。
同じ年に、この転換ぶりを冷ややかに見ている人もいた。大室貞一郎『知性の恢復』は、「始めから魂を持たなかった人々」が、かつて戦争を謳歌したのと同じ大声で、軍国主義に示したのと同じ性急さと熱心さで民主主義を讃美している、と書いている。表面が変わったことは、むしろ実質が変わっていないことの証拠だという論法である。
変わったことは当人たちが認めていた。ただし新刊の売り文句や、「私は変わっていない」という弁明の形もあった。そして転換の速さそのものは、実質が変わっていない証拠だと考える人が同時代にいた。
見渡す限りの焦土のなかで、すべてを失い、生きる気力をなくして呆然とたたずむ様子。
わりと元気はあったんじゃないの?
虚脱した記述は、たしかにある。
政界も経済界も内は教育界に至るまで茫然として為す所を知らない。之れが昭和廿年末期の日本のいつわらざる状態であつた。
『日本力行会創立五十年史 本編』日本力行会 1946 p.3 前書きを読む
正直、その衝撃は大きかつた。私は茫然自失し、慟哭した。私の一生のうち、これまでは無論のこと、おそらく今後においても、もはやこのやうな大きな動揺の中におかれることはあるまい。
田郷虎雄『嵐をくぐって来た女』日本出版社 1946 p.106 前書きを読む
ただ、883件にタグを付けて数えると、虚脱の側は多数派ではない。
タグは読み手(本サイト著者)が付けたもので、当時の分類ではない。複合タグは分解して数えている。数字は〈前書きと後書きの一部を読む〉で実際に読める879件での件数で、書誌だけで本文の無い2件は数に入れていない。
虚脱の反対側にあるのは、落ち着いた前向きさではない。こいつ何も考えていないんじゃないか、という妙な明るさである。『結婚難問題』は巻頭で「青年よ!その名は美しき人生の花なり」と青春を謳い、『釣場案内』は「うんと働いてうんと遊ばう」と書き、三段跳の金メダリスト織田幹雄は競技書の結びで次のオリンピックを語り、都市計画家の石川栄耀は全焼を理想都市実現の好機だと言い切った。
もうひとつ、構造的な事情がある。この時期に印刷物を出すには、紙と気力の両方が要った。虚脱している人間に本は出せない。前書きに虚脱が薄いのは、虚脱した人がそもそもこの場所に現れないからでもある。
虚脱は「あった」。ただし本の前書きという場所で優勢なのは、圧倒的に建設と期待の語彙のほうだった。ただしこの結果は、この時代に本を出すような人は、無駄に元気があるという偏りを差し引く必要はあるだろう。
「これで空襲に怯えなくて済む」「夜に明かりがつけられる(灯火管制の解除)」という、戦争が終わったことに対する本音の安堵。
はしゃいでた奴もいるんだろうな
喜びは、堂々と印刷されていた。
ところが八月十五日終戦となつた。見事に日本の惨敗だつた。私は終戦ときいて心から喜んだ。本当に嬉しくて涙が出さうだつた。あゝ、何といぶ永い間の暗い欝陶しい生活だつたことだらう。私は何年振りかで思ひ切り大気を呼吸した思ひだつた。
渡辺順三『新らしき日』新興出版社 1946 p.62 前書きを読む
昨年の八月十五日、田舎であの放送を聞きながら私は次第に身体の奥の方からふるへはじめて、放送が終つてもしばらくはふるへ止まなかつた。むし暑い日だつたのに、感動で身体中が冷たくなり、寒さを感じた。それは、何よりもまづ抑へがたい歓びだつた。
小田切秀雄『人間と文学 評論集』河出書房 1946 p.107 前書きを読む
同じ小田切の文章は、そのすぐ後に、まったく別の反応も書き留めている。バスの車庫の運転手の言葉である。
「こんなに俺たちは一生懸命やつてゐたのに今更降伏だなんて。もう働くのがバカ〳〵しくなつたから今日はバスはやめだ」
同上
解放感は「空襲が終わった」だけの話でもない。書けるようになった、が繰り返し出てくる。
しかし、これだけのことでも、昔ならとうてい活字にすることができないのだつた、と思ふと、書きながら、のびのびとした気分であつた。生きていて良かつたと思った。
大月桓志『牢獄記』羽生書房 1946 p.3 前書きを読む
解放感がいちばん強く出るのは、戦前に取り締まられた側である。産児調節運動を理由に投獄された医師の馬島僴は、終戦の放送に涙を流し、次から次へと出る進駐軍の布令を「まるで夢のやうな、然も厳粛な事実」として聴いた(『幸福なる夫婦』)。彼にとって占領軍は、人民解放を実行しに来た側である。この見え方は09につながる。
大っぴらな開放感と喜びが、本の前書きに書かれ、製本され、書店に並んだ。その一方で、働く気をなくした人の言葉も残っていた。
「戦前/戦後」という時代区分がここで発生した、ゼロからの再出発。
案外、つながってたんじゃないの?
ここがいちばん大きくずれる。1946年に出た本の中身は、かなりの割合で戦前・戦中に書かれたものである。原稿は疎開し、焼け残った紙型と印刷所が本を出した。
本書は昭和十五年著作し、既に印刷を終つた頃、日英関係は急に悪化し、戦争の危機が迫つたので、著者は少しく考ふるところあり、暫らく本書の出版を見合はすことにした、果然大東亜戦争は勃発し、苛烈なる空爆下にありて、本書の紙型は焼失したが、印刷本は転々疎開せられて、危うく戦災を免がれ、平和克復して、図らずも憲法改正問題の起りつある今日、終に出版の機会を得たのである。
淺井清『元老院の憲法編纂顛末』巖松堂書店 1946 p.217 前書きを読む
本第九巻青海・西康省は昨廿年春既に印刷を完了せるが、五月末製本工程中に戦火を蒙り全部焼失の厄に遭へり……幸ひ本会分室に疎開し安全なるを得たる紙型を活用し、印刷所の機能恢復を待ち、更に聯合軍最高司令部の検閲を経て再印刷に著手し、印刷所の好意的努力により漸く出来するに至れり。
『新修支那省別全誌 第9巻 青海省 西康省』東亜同文会 1946 p.561 前書きを読む
趣味の世界は、もっと露骨に地続きだった。
支那事変から太平洋戦争となり趣味愛好家は自粛し従つて人気も振はざりしが昭和二十年八月十五日終戦となり新日本建設に相応しき趣味なりと認められて愛好者も続々と現はれ好人気を見るに至り
日本細辛聯合会『園芸趣味の細辛』園芸新報社 1946 p.11 前書きを読む
つながっているのは物の側だけではない。敗戦後に溢れる「科学で立て直す」という気分も、戦前から続いている。明治中頃の迷信打破、大正の生活改善、戦時中の「科学的精神の涵養」は同じ線の上にあり、1944年の『国民生活費の研究』には、生活を建て直す上での支障は「科学的精神の乏しさから来る迷信」だと書かれている。敗戦の翌年に語られた科学立国は、この文の続きである。
ゼロからではない。断絶したのは制度と看板で、中身はつながっている。
前日まで「一億玉砕」と言っていたのに翌日から民主主義。
これはしばらく引きずってた人もいたでしょ。
「民主主義」の語は883件中95件に出てくる。量としては確かに翌日から溢れている。ただし中身は一様ではない。教育者に取材した長谷健は、新任の校長にこう言われている。
民主主義教育といはれるが、あなたの経営になるその実際は如何ですか、と設問した。彼は先づ敗戦の事実をいたく慨嘆し、いろいろな愚痴を並べた末、結局われわれは、猫の如く馬鹿になる外ありませんな、と、結論した。そして今日の学校経営上、何等の施策も行つてゐない旨を、得々と告げるのである。
長谷健『民主主義の教育』九州書房 1946 p.5 前書きを読む
「引きずる」は、必ずしも戦意の形をとらない。80歳の博物学者は、敗戦を「小日本への逆戻り」として受け取っている。惜しんでいるのは南洋の昆虫採集だ。
昭和二十年八月十五日の無条件降伏の御大詔は私の心をして再び明治初年の小日本に逆戻りした事を感じさせて、感慨無量と云ふより外はない。……他日南洋熱帯の大型標本等の調査に使用するチェッコ七、八号の昆虫針を使用する時期も来ることを、希望を以て楽しんで居たのに、今は東洋区の種は一つも手にする権利も無くなった。前途洋々たる青年有為の諸君もさぞや残念に思はれよう。
高千穂宣麿『鶯嶺仙話』九州帝国大学附属彦山生物学研究所 1946 p.7 前書きを読む
量が中身を保証しないことは、当時の書き手も気づいていた。『民主主義とは何か』の伊達雄策は、「猫も杓子も民主主義を口にし」ているが「上は時局便乗政治屋から下は八さん熊さんに至るまで、案外判つてはいない」と書く。ラジオ講座の『民主主義十二講』で天野貞祐は、日本人が形だけ真似ると「血まなこになり、高い声を出し、半気違ひになり易い」と釘を刺した。『婦人の解放と自由』の山内房吉は、この民主主義は「われわれが自力でたかい取つたものではない」と書いている。
気持の切り替えは本当に速かった。ただし「馬鹿になる外ありませんな」と嘆く校長や、失われた領地での昆虫採集を嘆く声が、同じ年に並んでいる。そして切り替えの速さは、理解の速さではない。それは同時代人が書いている。
一億総懺悔。
これで納得してたのかね。
「懺悔」という語が主体の文章は、883件のうちごく少数(総懺悔タグ3件)。多いのは、懺悔ではなく国民自身への批判である。「騙された」という嘆きが、繰り返されている。
今でこそ皆さんは自分達はいかにも戦争に関係が無かった様な顔をされたり、戦争をする意志が全然無かつた振りをされたり、或はやれ「騙されたの……」やれ「軍国主義が何うの……」と勝手次第な主張をされますが、其の実、戦時中には国民の一人々々が、誰も彼もが領土の拡張、大和民族の発展、豊かな資源を幻に描き、誤れるイデオロギーに没我的に成って指導者に協力したのみならず、自ら率先垂範、積極的行動を取った者も其の数少しとは決して云へないのであります。
ヌミネ社『選擧人への警鐘 : 民主政治への初の總選擧に於ての投票指針』1946 p.4 前書きを読む
誇大妄想狂的な指導者達にも勿論責任はあるが、その窮極は何と云っても大多数の民衆に真の自覚がなかったからであらう。よく二タ言目には「された」と云ふが、無智なるが故に、無自覚なるが故にこそ招いた悲惨な結果だったのではないか。
斎藤三郎『啄木と故郷人』光文社 1946 p.154 前書きを読む
この方向は、進駐軍の前での振る舞いへの苛立ちにもつながった。
列車中から投げられたチョコレートを立派な洋服の男までが拾ひ合ひ、電車の窓から煙草を投げると、それを婦女子までが奪ひ合つてゐる。これをみて悲しまずにあられやろか。
廣野喜代次『教育日本の新発足 : 民主主義、自由主義、教育の在り方』新教育研究會 1946 p.5 前書きを読む
では懺悔はどこへ行ったのか。「国民ひとりひとり」という言い方に吸収された。批判は、開戦を決めた原因そのものではなく国民全体へ分散し、しかも一人一人が考えたことを集めて精査する仕組みは作られなかった。反省は分散したまま、個別に置かれることになる(10)。
「みんなで反省しました」ではない。懺悔の形をとった相互批判に近い状況だった。
鬼畜米英から一転して親米へ、変わり身の早さ。
なんであんなすんなり受け入れたのかね……
早い。ただし「すんなり」ではない。英語の本の著者は、他人事のように世相を受け入れた。
俄然英語の時代が来た。自分はその是非を云為するのではない。客観的世相がその通りであり、個人の完成、社会の進運、国家の再建、凡ゆる角度から見て英語の持つ重要さが身に泌みて何人にも感知せられるに到つたと云ふにすぎない。
苫米地英俊『商業英語通信軌範』有朋堂 1946 終戦版に序す
音楽評論家の門馬直衛は、戦中に自分がアメリカ音楽の排斥に加担したことを書き懺悔した。
日本には可成り以前から奇妙な偏見があつてアメリカの音楽を軽ろんじる傾向があつたが、これは、戦争中にはアメリカ音楽の排斥や禁止にまで高まつた。私なども、国策の要請のまゝに、さういふ態度をとらなければならなかつた。今にして思へば、慚愧の極み、申訳けもない次第で、心から後悔し懺悔してゐる。
門馬直衛『アメリカ歌曲集』春秋社松柏館 1946 p.3 前書きを読む
そもそも変わっていない人もいる。戦中に「親米英派」と見なされて圧迫された商人のはこう語った。
我々は過去四十年間米英支蘇と商業上最も密接な制交を保つて来たものであるから、戦争中は親米英派と目されて可成りの圧迫を受けたものである。
堤清治郎『雑報八年』1946 p.10 前書きを読む
そして変わり身には下地があった。日本人は大正の昔から、「法律づくめ、規則づくめ」で「繁文縟礼」な自国の役所に苛立ち続けていた。そこへ、自分の責任で即断する進駐軍が来る。親米というより、鈍重な自国政府との対比で好意が発生している面が大きい(09)。
変わり身は速い。自覚的だった。「自分は変えた、恥じている」と書く人、「客観的にみて世相がそうだ」と処理する人、「もともと親米で批判されていた」人がいた。
戦前・戦中からの解放と思いきや、今度はGHQによる厳格な事前検閲が行われ、アメリカ・連合国への批判や原爆被害の惨状、さらには「検閲が行われていること自体」への言及も禁止されたというイメージ。
わりと厳しそうだし抵抗した奴もいるんだろうな。
883件のうち「検閲」の語が出るのは5件。少ないこと自体が統制の効き方を示している。そのうえで、抵抗の痕跡は残っている。削除だらけの本の末尾に、著者が追記を入れた例。
追記 検閲により所々削除せられたので、文章や思想の繋がりが甚だ不備になつてゐる箇所がある。削除による空白をあけることなく、そのまま詰めた。これを諒せられたい。
春木猛『米人の觀る日本・アジアの再建』大衆社 1946 p.80 前書きを読む
この一文自体も、検閲官に削除された。
ただし、ここには謎がある。春木を除くと、削られる覚悟で目茶苦茶な悪口を書いた人が、ほとんどいない。戦前の検閲はひっかかれば生死に関わるが、プレスコードにひっかかったところで殺されはしない。それでも玉砕覚悟の悪態は出てこない。むしろ多いのは、戦前の検閲を憎み、いま自由に書けることを喜ぶ声のほうである(『ヨーロッパに告ぐ』の「野蛮な封建的検閲制度は、私の訳稿の出版を不可能にした」など)。
削除の基準にも謎がある。子供向けの『孫悟空』では、觔斗雲を「まことにB29よりもはやくて、ちょうほうな魔法でした」と説明した一行が消されている。昔話に現在の話題を強引に入れる講談速記本の技法で、政治的な内容ではない。
もう一方の顔もある。検閲は、出版工程の一段階として淡々と記録されてもいる(04で引いた『新修支那省別全誌』の「聯合軍最高司令部の検閲を経て再印刷に著手し」)。そして自主規制のほうが、はっきり書かれる。
猶日本の軍国的指導者によつてなされた戦争中ものしたものが沢山あるので今日から見れば進駐国に対して失礼な字句があるかも知れない。……将来の繭扶等を考へれば印刷すべきでなかつたかも知れないが、私の気持はそんなことではあり得ないと信じて
堤清治郎『雑報八年』1946 p.10 前書きを読む
戦中の検閲についての回想は、むしろ自由に書ける。占領期の言論空間の形が、そこに出ている。
しかし、この文章が雑誌に掲載され初めると、果して検閲から厳しい監視が来た。終ひには継続して稿を続けることが難しくなつた。余程注意したつもりではあつたが、矢張り、困難な事情が起つて来たのである。
岩淵辰雄『対支外交史論』高山書院 1946 p.4 前書きを読む
統制が厳格だったこととはイメージ通り。抵抗したのが、春木ひとりしかないのは驚きで、多くの人は戦前の検閲を憎み、自由に書けることを喜んでいた。
占領軍は改革を上から押し付ける存在で、日本人は不本意ながらそれに従った。
そりゃ押し付けだったんじゃないの
押し付けかどうかを論じる前に、日本人はずっと自国の役所に苛立っていた。大正の雑誌には、官庁の能率が低いのは「一にも二にも法律づくめ、規則づくめで、形式に拘泥し、内容を軽視するから」だと書かれ(『日本及日本人』1924)、役所は「時間から時間へ、機械的に、操り人形の動くが如く」だと書かれている(『集約主義』1920)。戦時中も変わらず、行政は「椅子と判との行政」で「結局責任回避といふこと以外になにも意味がない」と評された(『終戰まで』)。
そこへ来た進駐軍は、速かった。埼玉の町で在庫の米麦・味噌・醤油を町民に無料特配した米軍中尉は、「進駐軍司令部に問合せてゐるひまがない」として一切を自分の責任で断行した。それを見た日本人が書いた見出しは「進駐軍を見習え」である。
まして、同中尉はこの事態を前にして「進駐軍司令部に問合せてゐるひまがない、一切自分の責任において断行」したのである。キビキビした胸のすくおもひがする。……これが日本人だと、やれ法律がどうの、手続きがどうのと書類ばかりをもちはこんで、肝心の処置がとられるころには、すでに現品がなかつたと云つた具合である。
飯島歳雄『世界公民論』文化宣傳社出版部 1946 https://dl.ndl.go.jp/pid/9853027/1/11
施設を接収された側でさえ、住み込んでくる米軍人には反感を持てず、憤懣に堪えないのは改修工事の係と建築屋のほうだ、と語っている。同じ対比が、政府を「鈍重駄馬」と呼ぶ声にも出る(『日本の反省』)。占領政策は、戦前から溜まっていた不満と、弾圧された側の期待を、まとめて受け止める器として働いた。
押し付けというより、戦前・戦中の政府よりはマシな対象として歓迎された。合理的で速いGHQと、判を押し続ける自国政府、この対比は占領の受け止め方にかなり影響を与えた。
敗戦を経て、国民の一人一人が戦争を反省し、その自覚の上に戦後の民主主義を担った。
本当に反省してたのかね。
「国民ひとりひとり」は戦後の発明ではない。おそらく戦中に、一人一人が体力を向上させ貯金をして国力を高め戦争に勝とう、という意味で使われ始めた語である。器はそのまま残り、中身だけが入れ替わった。
デモクラシーの実現には日本人の「一人々々が、貧富や年齢を問はず先づ正直で、勤勉で、親切で、礼儀正しい立派な人間になることが肝心」だと説かれ(『デモクラシーの勉強』)、憲法も「国民の一人一人が自分の血とし肉として」はじめて生きるとされた(『新憲法の講義』)。個人が正しくなれば国が良くなる、という筋である。
弱点は06と地続きだ。一億総懺悔もまた、一人一人が反省することだった。批判は原因そのものにではなく国民全体に分散し、しかも一人一人が考えたことを集めて突き合わせる仕組みは作られなかった。反省は分散したまま個別に存在し、システムにはならなかった。
一人一人は連呼された。反省も責任も一人一人に分散してしまった。
抑圧が終わり、日本人は自由を手に入れた。
今もあまり自由理解されてなくない?
語としては、確かに手に入れている。「自由」は883件の中に延べ127回出てくる。一方「平等」は4回しかない。
これは奇妙な比率である。戦前の日本ではむしろ平等が尊ばれ、自由のほうが警戒されていた。おそらく平等は自明すぎて書く必要がなく、自由は解禁されたから書かれた。歪みが敗戦でひっくり返った結果だと読める。
ただし扱いは雑だった。同じ年に、「自由民主といふことを無規律放縦の意に誤解ないし曲解し、各自が身勝手な振舞をして顧みない」という嘆きが出ている(『救國自治の提唱』)。平等は「みな同じ」と単純化できるが、自由は単純化しづらい。1949年の国語教科書には、民主主義をたてに身勝手を通す中学生が題材として登場する(『新制中等國語』)。
自由になったと感じたから、自由と書いた。平等のようには単純化できないため、中身の受け取り方は雑だった。それでもみんな自由が好きだった。