左側は政府統計と後年の再集計。右側は、日記・雑誌記事・書物の前書きに書かれた、 個人が数えた量(107件)。同じ出来事を、桁の違う二つの物差しで見る。
数値はいずれも出典の表記に従う。原文の漢数字・尺貫法は「事項」欄に残した。
| 年月日 | 主体 | 事項 | 数値 | 単位 | 出典 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1945-03-05 | 田村恒次郎 | 配給の米は一日一合八勺 | 1.8 | 合/日 | 田村恒次郎『辛酸』ミネルヴァ書房,1980 この日の記録 |
| 1946 | 『高等数学入門』前書き | 六千万石の米の取入れが略確実、二合五勺の配給も予想 | 2.5 | 合/日 | 大河内治『高等数学入門』コロナ社,1946 |
| 1945-01-19 | 浜田晶子(20歳・教師) | アンコウ鍋で白ご飯を七杯食べた | 7 | 杯 | 浜田晶子『疎開教師20歳の日記』大村書店,1994 この日の記録 |
| 1908-09-08 | 高浜虚子 | 朝三杯・昼三杯・夜四杯、一日で飯を十杯食べた | 10 | 杯/日 | 高浜虚子『紀行文・俳文』改造社,昭12 この日の記録 |
| 1945-06-22 | 吉原幸子(疎開学童) | 大きなおにぎりを五個完食した | 5 | 個 | 『豊島の集団学童疎開資料集』3,1992 この日の記録 |
| 1945-08-16 | 印南博吉 | 卵十二個・ポテト三貫匁・潰し麦三升を受け取った | 12 | 個 | 『人生曼陀羅 : 庶民の日記集』1975 この日の記録 |
| 1904-09-06 | 鹿野吉広(従軍) | 白米五割・粟五割の割合で飯を炊いた | 50 | % | 鹿野吉広『日露戦争を斯く戦へり』昭和12 この日の記録 |
配給基準は2合3勺。京都の田村恒次郎が実際に受け取っていたのは1合8勺で、1946年の数学書の前書きは2合5勺の配給を「予想」と書いている。一方で1908年の高浜虚子は温泉宿で一日に飯10杯を食べている。
| 年月日 | 主体 | 事項 | 数値 | 単位 | 出典 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1930-11-22 | 今西弥之助 | パイナップル一缶と白米一升が同額の二十六銭 | 0.26 | 円 | 『苦闘する人間像 : 水平社同人の日記』1973 この日の記録 |
| 1945-03-05 | 田村恒次郎 | 大根が一本一円 | 1 | 円 | 田村恒次郎『辛酸』1980 この日の記録 |
| 1946 | 『労働組合法の解説』 | 印刷工賃の高騰で一冊一円五十銭に値上げ | 1.5 | 円 | 菊池勇夫『労働組合法の解説』日本産業協議会出版部,1946 |
| 1946 | 受験参考書の著者 | 学生生活の経費が月々五百円に及ぶ | 500 | 円 | 萩野谷晃『高等専門・大学予科受験の新指導』自由研究社,1946 |
| 1948-01-30 | 鈴木積(学生) | 芋二十円・煙草十円・書籍七円を使った | 37 | 円 | 鈴木積『空腹日記抄』1994 この日の記録 |
| 1955-09-14 | 無弦琴 | みなが二百円の晩飯のところ十三円の牛乳を晩飯にした | 13 | 円 | 無弦琴[編]『風樹の嘆き』1985 この日の記録 |
| 1966-09-17 | 小暮和一 | 娘のアパート 家賃月一万円・礼金三万五千円・仲介礼金一万円 | 35000 | 円 | 小暮和一『吾が人生は川原の石ころ』1989 この日の記録 |
1930年に白米1升とパイナップル1缶が同じ26銭だった。1945年3月には大根1本が1円になっている。同一の物差しでは並ばないので、それぞれが何と同額だったかを見るしかない。
| 年月日 | 主体 | 事項 | 数値 | 単位 | 出典 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1945-04 | 『ソクラテス』(桜井書店) | 六千部が製本屋で戦災に遭い、刷り直しも再度焼失 | 6000 | 部 | A.E.テイラー/林竹二訳『ソクラテス』桜井書店,1946 |
| 1945 | 『明治川』(藤谷崇文館) | 出版会で五千部の許可が下りたが紙型もろとも焼失 | 5000 | 部 | 岸哲男『明治川』藤谷崇文館,1946 |
| 1945 | 土屋文明『アララギ』 | 印刷所・発行所の焼失を四度くり返した | 4 | 回 | 『アララギ』 NDL |
| 1945 | 土屋文明『アララギ』 | 青磁社の協力で八頁程度の報告号を印刷した | 8 | 頁 | 『アララギ』 NDL |
| 1946 | 日本力行会 | 印刷費が戦前の十倍以上に達している | 10 | 倍 | 『日本力行会創立五十年史』1946 |
| 1938-1942 | 新聞雑誌の用紙統制 | 1938年7月に統制開始、1942年末には四割減 | 40 | %減 | 〈戦時中でも雑誌を出し続けたかった人々〉本文 |
| 1946 | 『経書の成立』(全国書房) | 研究所の二百字詰用紙で五百枚余の原稿 | 500 | 枚 | 平岡武夫『経書の成立』全国書房,1946 |
国富の4分の1という数字の内側で、6,000部が二度焼け、5,000部の許可が紙型ごと消え、一つの短歌雑誌の印刷所が4回続けて焼けている。
| 年月日 | 主体 | 事項 | 数値 | 単位 | 出典 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1946 | 久米真『エヂソン物語』 | 「八千万もの稠密な人々を養はねばならぬ敗戦日本」 | 80000000 | 人 | 久米真『エヂソン物語』星書房,1946 前書きを読む |
| 1946 | 近野英吉『山地農作と造林』 | 森林は百万町歩に約半減、人口は日清日露当時の約二倍の七、八千万人 | 2 | 倍 | 近野英吉『山地農作と造林』霞ケ関書房,1946 |
| 1946 | 本多静六『克乏の食生活』 | 領土は七十年前の面積に還り、人口は当時の二倍強 | 2 | 倍強 | 本多静六『克乏の食生活』旺文社,1946 |
| 1946 | 高千穂宣麿(華族・昆虫学者) | 「回顧すれば私の八十余年の生涯」 | 80 | 歳 | 高千穂宣麿『鶯嶺仙話』1946 前書きを読む |
同時代の本は人口を「八千万」と書く。領土は「七十年前の面積」に戻り、人口はその当時の「二倍強」。この二つの数字の比が、当時の恐怖のかたちだった。
| 年月日 | 主体 | 事項 | 数値 | 単位 | 出典 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1991 | 岐阜の元日本兵たち | 総勢十七名で中国の戦地を八日間かけて巡った | 17 | 人 | 〈世界対抗戦争反省大合戦〉本文(引用元は非公開) |
| 1991 | 岐阜の元日本兵たち | 駐屯した部落に日本酒を一升か二升配ろうと提案した | 1-2 | 升 | 〈世界対抗戦争反省大合戦〉本文 |
| 1991 | 岐阜の元日本兵たち | 中国人ガイドにチップとして一万円を渡した | 10000 | 円 | 〈世界対抗戦争反省大合戦〉本文 |
| 1945-08 | 尾崎行雄 | 86歳で『文化と戦争は両立し得ざるもの』の意見書を提出 | 86 | 歳 | 〈世界対抗戦争反省大合戦〉本文 |
| 現在 | 日本の慰霊ツアー | フィリピン国内だけで慰霊碑が四百以上 | 400 | 基 | 〈世界対抗戦争反省大合戦〉本文 |
| 現在 | ドイツ | つまづきの石(シュトルパーシュタイン)が十万個を超える | 100000 | 個 | 〈世界対抗戦争反省大合戦〉本文 |
624万人が帰ってきて、その一部が数十年後に17人で戦地を再訪し、日本酒を一升か二升配った。マクロ側の数字が個人に戻ると、この大きさになる。
1行=1つの数値。出典は国立国会図書館デジタルコレクションの書誌とURL。
| 年月日 | 主体 | 事項 | 数値 | 単位 | 補足 | 出典 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1849-12-03 | 川合梅所の妻・小梅 | 牛肉を三切れ食べて腹痛を起こした | 3 | 切れ | 同夜、酒は一升取り寄せ | 永山久夫『酒雑学百科』河出書房新社,1983 この日の記録 |
| 1849-12-03 | 川合梅所 | 夜に酒を一升取り寄せ、牛肉で飲んだ | 1 | 升 | 近所の会合 | 永山久夫『酒雑学百科』河出書房新社,1983 この日の記録 |
| 1889-06-18 | 藤倉弥平 | 朝、寝床の中で五合の酒を飲んだ | 5 | 合 | 起床前の一杯 | 『禁酒雑誌』1(4),1890-05 この日の記録 |
| 1889-06-18 | 藤倉弥平 | 毎日三升五合は飲まないと気が済まない | 3.5 | 升/日 | 家族は閉口。後に口から生き物が出て一滴も飲めなくなる | 『禁酒雑誌』1(4),1890-05 この日の記録 |
| 1904-09-06 | 鹿野吉広(従軍) | 白米五割・粟五割の割合で飯を炊いた | 50 | % | 日露戦争の宿営地。久々にたらふく食べた | 鹿野吉広『日露戦争を斯く戦へり』昭和12 この日の記録 |
| 1908-09-08 | 高浜虚子 | 朝三杯・昼三杯・夜四杯、一日で飯を十杯食べた | 10 | 杯/日 | 温泉旅館に滞在中 | 高浜虚子『紀行文・俳文』改造社,昭12 この日の記録 |
| 1911-07-07 | 岡本桜 | 下戸の岡本がビールを二杯飲んだ | 2 | 杯 | 千代田瓦斯開通の祝杯。奈良漬ひとつで赤面する下戸 | 『瓦斯の世界』7(3),1937-03 この日の記録 |
| 1912-01-03 | 榊谷仙次郎 | 堀内家で醤油をつけた餅を十二個食べた | 12 | 個 | そのまま夕飯も食べ泊まった | 『榊谷仙次郎日記』1969 この日の記録 |
| 1916-11-19 | 茂野吉之助 | 禁酒前は昼にワイン一杯、夜にビール一本 | 1+1 | 杯/本 | 喀血を機に禁酒。禁酒五日目に体調良好と記す | 『茂野吉之助』1957 この日の記録 |
| 1923-02-03 | 馬橋岩蔵 | 坂本屋から鴨南蛮を二つとり、一つは先輩に食べられた | 2 | 杯 | 鴨南蛮は一杯八銭 | 『馬橋日記 : 大正期の青年日記』1981 この日の記録 |
| 1936-11-06 | 種田山頭火 | 酒なしデーが四日目 | 4 | 日 | 夕方に酒が届き、来客二人と飲む | 種田山頭火『其中日記5』春陽堂書店,1980 この日の記録 |
| 1937-12-16 | 大崎蘇市 | 夜通しのキビナゴ漁で配分は一升程度 | 1 | 升 | 兄と二人で帰り朝寝 | 『鹿児島民具』(9),1990-10 この日の記録 |
| 1938-08-23 | 千原輝一 | 後輩の野瀬にビールを十本買ってやった | 10 | 本 | 艦内の酒保。弟と同い年 | 千原輝一『しばぐり』昭和15 この日の記録 |
| 1943-04-02 | 手塚利弥太(旧制松本高校寮) | 全寮コンパに鳥の子餅三百個を用意 | 300 | 個 | 饅頭・パン・洋菓子は用意できず | 『旧制松本高校青春記』郷土出版,1978 この日の記録 |
| 1943-04-02 | 手塚利弥太(旧制松本高校寮) | 海苔巻四百個を用意した | 400 | 個 | 塩気がなく一つずつ醤油をつけて出した | 『旧制松本高校青春記』郷土出版,1978 この日の記録 |
| 1943-09-19 | 秋野恒雄(海軍) | 十銭出すと菓子が配給された | 10 | 銭 | 号令に従って食べる方式。自由に食べることは不可 | 『地のさざめごと』1966 この日の記録 |
| 1944-03-15 | 岡本潤 | ビールの配給三本、一本で気持ちよくなった | 3 | 本 | 妻が買ったジャガイモと玉子もあり「浅ましいくらいにうれしく」 | 岡本潤『時代の底から』風媒社,1983 この日の記録 |
| 1945-01-19 | 浜田晶子(20歳・教師) | アンコウ鍋で白ご飯を七杯食べた | 7 | 杯 | 結婚準備で婚約者の家に滞在中 | 浜田晶子『疎開教師20歳の日記』大村書店,1994 この日の記録 |
| 1945-03-05 | 田村恒次郎 | 配給の米は一日一合八勺 | 1.8 | 合/日 | 「自分は大食漢だからこれでは餓死をしてしまう」 | 田村恒次郎『辛酸』ミネルヴァ書房,1980 この日の記録 |
| 1945-06-22 | 吉原幸子(疎開学童) | 大きなおにぎりを五個完食した | 5 | 個 | 学徒隊結成式の記念行軍の弁当。食後にデザートも | 『豊島の集団学童疎開資料集』3,1992 この日の記録 |
| 1945-08-16 | 印南博吉 | 卵十二個・ポテト三貫匁・潰し麦三升を受け取った | 12 | 個 | 敗戦翌日。村人を「アメリカは乱暴なことはしない」と慰めた帰り | 『人生曼陀羅 : 庶民の日記集』1975 この日の記録 |
| 1952-02-25 | 内田百間 | 酒三合とビール一本を飲んで十一時から晩ご飯 | 3 | 合 | 起床は正午、就寝は午前三時過ぎ。原稿は三枚 | 『新輯内田百間全集』第26巻,1989 この日の記録 |
| 1980-10-18 | 清水健一(3歳) | 喫茶店でオレンジジュースをコップ一杯飲み干した | 1 | 杯 | 家ではジュースの量を制限されている。「最高の一日だ」 | 清水一幸[編]『健一』[1981] この日の記録 |
| 1946前後 | 匿名の著者 | 一升のアルコールで怪しげな六升ウィスキーをつくった | 6 | 升 | 「飲みつくすであらう二ケ月の間に今後の生きる方途を見きはめよう」 | 前書き・後書きメモ(敗戦直後の随筆) |
| 1946前後 | 語学講座中の人物 | 大飯といってもドンブリに七杯か八杯で普通は間に合う | 7-8 | 杯 | 会話体教材中の描写 | 前書き・後書きメモ(語学講座本) |
| 年月日 | 主体 | 事項 | 数値 | 単位 | 補足 | 出典 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1877-03-22 | 松永芳正 | 木村が五円返し、残金は十五円 | 5 | 円 | 貸金の返済 | 杉本三木雄『汽笛一声蒸気車事始』みき書房,1975 この日の記録 |
| 1891-05-23 | 名を名乗らない少女 | 寄付金は十四銭一厘 | 0.141 | 円 | 来会者三千余人・寄付総額四十円以上の慈善音楽会で「一番の慈善者」と称えられた | 『女学雑誌』(268),1891-06 この日の記録 |
| 1891-05-23 | 仙台基督教青年会 | 慈善音楽会の来会者三千余人、寄付四十円以上 | 3000 | 人 | 宮城県 | 『女学雑誌』(268),1891-06 この日の記録 |
| 1923-02-03 | 坂本屋(蕎麦屋) | 鴨南蛮ひとつ八銭 | 0.08 | 円 | 役所への出前 | 『馬橋日記』1981 この日の記録 |
| 1927-10-24 | T.T.(鳶職) | 二十銭の酒を三杯飲んだ | 0.6 | 円 | 七連勤して十円ほど所持。金が尽きるまで休む計画 | 『労働者生活調査資料集成』第10巻,1995 この日の記録 |
| 1930-11-22 | 今西弥之助 | パイナップル一缶と白米一升が同額の二十六銭 | 0.26 | 円 | 五日ごとにパイナップルを食う。妻は「米一升の散財」と怒る | 『苦闘する人間像 : 水平社同人の日記』1973 この日の記録 |
| 1932-02-05 | 大蔵公望 | 白木屋の出来合いコートが六十八円 | 68 | 円 | 「とられて驚いてしまった。高い」 | 『大蔵公望日記』第1巻,1973 この日の記録 |
| 1935-12-17 | 三谷民子(女子学院) | 相馬黒光母娘から千円の寄付を受けた | 1000 | 円 | 使途自由。家に苦学生が三人いる | 『三谷民子 : 生涯・想い出・遺墨』1991 この日の記録 |
| 1937-02-10 | 山田野理夫 | 森下商店で靴下を一円二十銭で買った | 1.2 | 円 | 同日、和朗会・コーヒー・タクシー | 『安西冬衛全集』第7巻,1979 この日の記録 |
| 1939-12-10 | 上原要三郎 | 賭けに負けて青島で一円おごることになった | 1 | 円 | 「この日を待った!」をどちらが先に叫ぶかの賭け | 上原要三郎『輜重兵(秘)日記』国書刊行会,1983 この日の記録 |
| 1942-04-20 | 腰川完(軍医?・南方) | ビール一本が一円 | 1 | 円 | 「美味い。しかし高い」 | 腰川完『南海に散った父の戦争日記』1992 この日の記録 |
| 1942-12-11 | 河合栄治郎 | 人力車の代金が八十銭で「大変な損失」 | 0.8 | 円 | 病院・面会をはさんだ一日 | 『河合栄治郎全集』第23巻,1991 この日の記録 |
| 1945-03-05 | 田村恒次郎 | 大根が一本一円 | 1 | 円 | 塩も配給になるとの噂 | 田村恒次郎『辛酸』1980 この日の記録 |
| 1948-01-30 | 鈴木積(学生) | 芋二十円・煙草十円・書籍七円を使った | 37 | 円 | 「これは贅沢ではない。必要な出費である。しかし金が減るのは嫌だ」 | 鈴木積『空腹日記抄』1994 この日の記録 |
| 1954-02-06 | 妹尾義郎 | 『結核はこうすれば必ず治る』二八〇円を購入 | 280 | 円 | 入院中。一気に読んだ | 『妹尾義郎日記』第7巻,1975 この日の記録 |
| 1955-09-14 | 無弦琴 | みなが二百円の晩飯のところ十三円の牛乳を晩飯にした | 13 | 円 | 三輪の免許代五千円が用意できない。後にラジオを売って取得 | 無弦琴[編]『風樹の嘆き』1985 この日の記録 |
| 1960-03-06 | 岸上大作 | パン十五円・コロッケ二十円・野菜五十円 | 85 | 円 | 四日前に漱石全集を三冊購入 | 岸上大作『もうひとつの意志表示』大和書房,1973 この日の記録 |
| 1966-09-17 | 小暮和一 | 娘のアパート 家賃月一万円・礼金三万五千円・仲介礼金一万円 | 35000 | 円 | 新築六畳一室、トイレ外、流し台あり | 小暮和一『吾が人生は川原の石ころ』1989 この日の記録 |
| 1994-11-02 | 横井信義(警察官) | 公衆接遇費から千円を貸し出した | 1000 | 円 | 所持品を全て落とした少年の帰郷費用。弁当は自腹 | 『自警』76(1),1994-01 この日の記録 |
| 1946 | 『労働組合法の解説』 | 印刷工賃の高騰で一冊一円五十銭に値上げ | 1.5 | 円 | 出版計画時からの値上げを前書きで謝罪 | 菊池勇夫『労働組合法の解説』日本産業協議会出版部,1946 |
| 1946 | 海洋気象学会 | 会費を半期約二十円に増額予定 | 20 | 円 | 神戸空襲で庁舎・在庫・印刷所を失った後の再刊号 | 『海と空』25(3),1946 |
| 1946 | 受験参考書の著者 | 学生生活の経費が月々五百円に及ぶ | 500 | 円 | 「全学生の八割をしめる中産階級出身者には頭痛の種」 | 萩野谷晃『高等専門・大学予科受験の新指導』自由研究社,1946 |
| 1946 | 農村演劇の観察者 | 素人芝居のハナ代が二万何千円 | 20000+ | 円 | 「一体そこでなにをやつたのかまさに知る人ぞ知る」 | 堀尾勉『農村演劇』瑞穂社,1946 |
| 1946 | ある出版者 | 十八年ほど前は一円で五百ページを超える本が出ていた | 1 | 円 | 「みすぼらしい書物しかできない今の世の中を悲しく思ひます」 | 前書き・後書きメモ |
| 1961回想 | 某医局員 | 新薬の臨床文献の謝礼三百円を医局の同志で飲んだ | 300 | 円 | 後に教授の耳に入り問題化 | 『日本薬剤師協会雑誌』13(6),1961 |
| 年月日 | 主体 | 事項 | 数値 | 単位 | 補足 | 出典 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1918-02-24 | 若山牧水 | 持参した原稿用紙五百枚に一枚も書けなかった | 500 | 枚 | 明治館に二十日ほど滞在 | 若山牧水『牧水全集』第四巻,昭和4 この日の記録 |
| 1929-10-02 | 柴田春郊 | 記念葉書は二つまで、切手は二十枚限りの購入制限 | 20 | 枚 | 神宮式年遷宮祭の記念切手発売日に郵便局を巡った | 『寸葉趣味』(133),1929-10 この日の記録 |
| 1946-10-05 | 竹内好 | タバコくじで十本当てた(母は二回引いて全てはずれ) | 10 | 本 | 同日、翻訳を三枚 | 『竹内好全集』第15巻,1981 この日の記録 |
| 1947-02-01 | 黒田三郎 | 本を十冊買い、一冊を店に忘れてきた | 10 | 冊 | 洋裁屋の外套は期日を過ぎても未完成 | 『黒田三郎日記』戦後篇1,思潮社,1980 この日の記録 |
| 1945-04 | 『ソクラテス』(桜井書店) | 六千部が製本屋で戦災に遭い、刷り直しも再度焼失 | 6000 | 部 | 三度目でようやく刊行 | A.E.テイラー/林竹二訳『ソクラテス』桜井書店,1946 |
| 1945-04 | 『演出入門』(霞ケ関書房) | 昭和二十年四月にようやく初版三千部が出来あがった | 3000 | 部 | A5判。「戦争中の出版としては満足しうる立派なもの」 | 北村喜八『演出入門』霞ケ関書房,1946 |
| 1945 | 『明治川』(藤谷崇文館) | 出版会で五千部の許可が下りたが紙型もろとも焼失 | 5000 | 部 | 同時に他の原稿五百枚も焼失 | 岸哲男『明治川』藤谷崇文館,1946 |
| 1946 | 『ゑげれすいろは』(富岳本社) | 作者の自摺により五十部のみ私刊された | 50 | 部 | 「その一部にのみ蔵せらるるを惜み、乞ふて公刊せる」 | 川上澄生『ゑげれすいろは』富岳本社,1946 |
| 1946 | 日本力行会 | 印刷費が戦前の十倍以上に達している | 10 | 倍 | 『力行会五十年史』刊行時。写真版はほぼ使用不可 | 『日本力行会創立五十年史』1946 |
| 1946 | 『経書の成立』(全国書房) | 研究所の二百字詰用紙で五百枚余の原稿 | 500 | 枚 | 校正刷に四六倍版の厚手上質紙が使われたことを「望外の喜び」と記す | 平岡武夫『経書の成立』全国書房,1946 |
| 1943-1944 | 阿部吉蔵『将棋月報』 | 二十三年間、将棋雑誌を発行し続けた | 23 | 年 | 「うちの印刷所は月報を休んだ月の方が黒字なんですよ」 | 『将棋月報』 NDL |
| 1922-03 | 『風雲天地新報』(将棋月報の前身) | 毎月二回、定価六銭で発行 | 0.06 | 円 | ペラ紙に将棋大会の通知・成績・詰将棋 | 『将棋月報』 NDL |
| 1944-1945 | 土屋文明『アララギ』 | 1944年12月号が読者に届いたのは1945年3月 | 3 | か月遅延 | 以後、事実上の休刊 | 『アララギ』 NDL |
| 1945 | 土屋文明『アララギ』 | 印刷所・発行所の焼失を四度くり返した | 4 | 回 | 4/13東京証券、5/25発行所、6/20頃豊橋、7/9仙台笹気印刷所 | 『アララギ』 NDL |
| 1945 | 土屋文明『アララギ』 | 青磁社の協力で八頁程度の報告号を印刷した | 8 | 頁 | 焼け残りの中で出せた唯一の号 | 『アララギ』 NDL |
| 1938-1942 | 新聞雑誌の用紙統制 | 1938年7月に統制開始、1942年末には四割減 | 40 | %減 | 第三種郵便物の引受停止も重なった | 〈戦時中でも雑誌を出し続けたかった人々〉本文 |
| 1946-1953 | 藤森清一朗 | 個人誌『独立』を278号まで刊行した | 278 | 号 | 海軍将官出身で天皇の戦争責任を問い続けた | 〈戦争をして頭が悪くなった人〉本文 |
| 1952 | 栗原彦三郎 | 講和記念刀三百口の製作許可を取り付けた | 300 | 口 | GHQの禁令で消えた鍛刀の音が戻った | 〈戦時中でも雑誌を出し続けたかった人々〉本文 |
| 年月日 | 主体 | 事項 | 数値 | 単位 | 補足 | 出典 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1898-03-16 | 寺田寅彦 | 布団に入ると蚊が二匹くらい飛んでいて苦しんだ | 2 | 匹 | 代数の試験当日 | 『寺田寅彦全集』文学篇 第12巻 この日の記録 |
| 1909-07-05 | 山下富蔵(61歳) | 八尺の大蛇と三尺のクチバシの大鷲が格闘していた | 8 | 尺 | ※雑誌記事の伝聞で誇張の可能性あり。鷲を生け捕りにした | 『探検世界』8(3),1909-08 この日の記録 |
| 1920-06-04 | 示村慶太郎 | 今いる十数羽を七十羽まで増やす予定 | 70 | 羽 | 雛が台所に闖入し茶瓶をひっくり返す | 示村慶太郎『養豚資料子安日記』大正10 この日の記録 |
| 1920-08-03 | 川西良吉 | 蝉の羽化を17:00から観察、20:55に殻と身体が分かれた | 235 | 分 | 羽が伸びるまでさらに五十分 | 『理科教育』8(7),1925-07 この日の記録 |
| 1940-08-21 | 太田草歩 | 眼病のチャボを持ち込まれ、これで四羽目 | 4 | 羽 | 「銀行が病気のチャボの隔離所になってしまう」 | 『懸葵』37(10),1940-10 この日の記録 |
| 1942-04-20 | 腰川完 | 鶏はあと二羽、今日一羽食べるので残り一羽 | 2 | 羽 | 「村に徴発に行っても、もう鶏はいない。隠したんだろう」 | 腰川完『南海に散った父の戦争日記』1992 この日の記録 |
| 1945-01-25 | 若林直幸(中学生) | 五、六メートルはある一頭の牛が角を振り立てて突進してきた | 1 | 頭 | 牛は小田急線の第二踏切で捕獲された | 『あのころ : 戦争体験記』町田市,1992 この日の記録 |
| 1980-06-12 | 福井県立藤島高校 | 鴨の親子十二羽が中庭を散歩した | 12 | 羽 | 翌年、日本鳥類保護連盟から学校賞 | 『百三十年史』1988 この日の記録 |
| 年月日 | 主体 | 事項 | 数値 | 単位 | 補足 | 出典 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1908-05-21 | 堀内礼二(郵便局員) | 客が二百冊の通帳を持ち込んだ | 200 | 冊 | 主任が病欠で一人。「一分間の休息すらする暇がない」 | 『逓信協会雑誌』1月(42),1912-01 この日の記録 |
| 1908-05-21 | 堀内礼二(郵便局員) | 閉店間際に新規申込六十件と通帳五十冊をまとめたいと言われた | 60 | 件 | 現金と残高が一致した時の安堵は忘れられぬものとなった | 『逓信協会雑誌』1月(42),1912-01 この日の記録 |
| 1906-11-09 | 森田雷死久(四国遍路中) | 宿坊に遍路の参詣人が十五人ほどいた | 15 | 人 | 本膳に二の膳、肴が四皿ついた豪華な食事 | 鶴村松一『森田雷死久』1979 この日の記録 |
| 1929-07-23 | 鄭碩憲(卒業生) | 田を五百坪、畑を八二〇坪譲り受けた | 820 | 坪 | 「郡内六ヶ所を見た中では君の農地が一等だ」と評価された | 『朝鮮農会報』3(10),1929-10 この日の記録 |
| 1939-05-02 | 松阪青年会 | 十一人が自転車で伊勢神宮を往復十五里 | 15 | 里 | 最年少17歳・最年長59歳、落伍者ゼロ。8時出発〜17時帰着 | 『金光教青年』(6月號)(138) この日の記録 |
| 1938-06-29 | 井原和一 | 出水で道路から一尺余り水が溢れていた | 1 | 尺 | 父は謡の稽古と偽って飲みに出た | 『与野市史』別巻[3],1993 この日の記録 |
| 1975-12-18 | 新渡戸稲子 | 移転から十四年振りに部屋を改築した | 14 | 年 | 母の死から三年目 | 新渡戸稲子『稲子の思い出草』1988 この日の記録 |
| 1984-04-29 | 東岡富一(農協組合長) | 千人以上の観客に向けて十俵の餅投げを行った | 10 | 俵 | 来賓百五十人、四斗樽の鏡割り | 東岡富一『組合長日記』[1988] この日の記録 |
| 1944 | 山形県天童市の短波ラジオ会 | 深夜に集まって海外放送を聴いた | 5 | 人 | 本文中の記載は「四人」で人数表記に揺れあり。特高巡査Mの左遷で発覚を免れた | 『回想の斎藤一郎』1982 NDL |
| 年月日 | 主体 | 事項 | 数値 | 単位 | 補足 | 出典 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1991 | 岐阜の元日本兵たち | 総勢十七名で中国の戦地を八日間かけて巡った | 17 | 人 | 最年少68歳・最年長80歳 | 〈世界対抗戦争反省大合戦〉本文(引用元は非公開) |
| 1991 | 岐阜の元日本兵たち | 駐屯した部落に日本酒を一升か二升配ろうと提案した | 1-2 | 升 | 子供には飴とチョコレート | 〈世界対抗戦争反省大合戦〉本文 |
| 1991 | 岐阜の元日本兵たち | 中国人ガイドにチップとして一万円を渡した | 10000 | 円 | 「印象に残る案内でした」と言い残して去った | 〈世界対抗戦争反省大合戦〉本文 |
| 現在 | PL教団 | 超宗派万国戦争犠牲者慰霊大平和祈念塔の高さ 180m | 180 | m | 世界一高い記念塔サンジャシント記念塔(172.92m)を上回る | 〈世界対抗戦争反省大合戦〉本文 |
| 現在 | ドイツ | つまづきの石(シュトルパーシュタイン)が十万個を超える | 100000 | 個 | 日本側が数で敵わない例として提示 | 〈世界対抗戦争反省大合戦〉本文 |
| 現在 | 日本の慰霊ツアー | フィリピン国内だけで慰霊碑が四百以上 | 400 | 基 | 他国分を含めると相当量 | 〈世界対抗戦争反省大合戦〉本文 |
| 1945-08 | 尾崎行雄 | 86歳で『文化と戦争は両立し得ざるもの』の意見書を提出 | 86 | 歳 | 東久邇宮内閣任命時の臨時会議。植民地の帰属は住民の自由意志でと主張 | 〈世界対抗戦争反省大合戦〉本文 |
| 1945-08-15 | 樺太野田の女教師・工藤 | 敗戦の日の夜に寂しい盆踊りを見た | 1 | 件 | 「太鼓を打つ音も力なく、人の輪だけがうつろな面持ちで揺れていた」 | 〈世界対抗戦争反省大合戦〉本文 |
| 年月日 | 主体 | 事項 | 数値 | 単位 | 補足 | 出典 |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 1946 | 久米真『エヂソン物語』 | 「八千万もの稠密な人々を養はねばならぬ敗戦日本」 | 80000000 | 人 | 国土狭小への恐怖の表現 | 久米真『エヂソン物語』星書房,1946 前書きを読む |
| 1946 | 近野英吉『山地農作と造林』 | 森林は百万町歩に約半減、人口は日清日露当時の約二倍の七、八千万人 | 2 | 倍 | 引揚邦人を加えた人口認識 | 近野英吉『山地農作と造林』霞ケ関書房,1946 |
| 1946 | 本多静六『克乏の食生活』 | 領土は七十年前の面積に還り、人口は当時の二倍強 | 2 | 倍強 | 克乏生活の実践を説く前提として | 本多静六『克乏の食生活』旺文社,1946 |
| 1946 | 『甘藷の上手な喰べ方』 | 戦前平年作で米六三〇〇万石を消費していた | 63000000 | 石 | 敗戦後の食糧計算の出発点 | 久宗壮・本沢秀堂『甘藷の上手な喰べ方』1946 |
| 1946 | 『甘藷の上手な喰べ方』 | 前年の政府調査実収は四三〇〇万石 | 43000000 | 石 | 「実際は一〇〇〇万石位多いと推測さる」と併記 | 久宗壮・本沢秀堂『甘藷の上手な喰べ方』1946 |
| 1946 | 『甘藷の上手な喰べ方』 | 政府は一八七〇万石(三〇〇万トン)の輸入を要請 | 3000000 | トン | フーバーは八七万トンでよいと主張 | 久宗壮・本沢秀堂『甘藷の上手な喰べ方』1946 |
| 1946 | 『高等数学入門』前書き | 六千万石の米の取入れが略確実、二合五勺の配給も予想 | 2.5 | 合/日 | 「やつと落付いて勉強が出来ることになりました」 | 大河内治『高等数学入門』コロナ社,1946 |
| 1953 | 藤森清一朗「青年よ起て」 | 本土決戦を続けても軍隊の五十万や百万は維持できたと論じた | 500000-1000000 | 人 | 本土決戦論の根拠。筆者は「狂っている」と評価 | 『日本及日本人』4(1),1953-01 NDL |
| 1947-08 | 時事通信社調査局 | 新憲法の条文や説明を「読んだ・聞いた」に はい 59.7% | 59.7 | % | 世論調査そのものが民主主義の実践として行われた | 2026年時点の集計。〈5,728件の前書きと後書きを全部読んだ〉本文 |
| 1946-12-16 | 『毎日新聞』 | 憲法改正は成功35%、だいたい成功57% | 92 | % | 90%以上が新憲法を肯定的に受容 | 〈5,728件の前書きと後書きを全部読んだ〉本文 |
| 1946-11〜1947-05 | NHK『街頭録音』 | 新憲法は 行き過ぎ25%/適当50%/もの足りない15%/意見なし10% | 50 | % | 統計的手法は用いていないと明言された独自調査 | 〈5,728件の前書きと後書きを全部読んだ〉本文 |
| 1945-1946 | 白雲蝸廬(豊島愛明) | ガス業界紙の編集長、当時62歳 | 62 | 歳 | 戦中・戦後で主張が変わらなかった例 | 『日本瓦斯技術協会誌』 NDL |
| 1946 | 高千穂宣麿(華族・昆虫学者) | 「回顧すれば私の八十余年の生涯」 | 80 | 歳 | 領土喪失でチェコ製昆虫針が使えなくなったことを嘆いた | 高千穂宣麿『鶯嶺仙話』1946 前書きを読む |
| 没年1990 | 土屋文明 | 101歳まで生きた | 101 | 歳 | 焼けても焼けても印刷所を探し続けた粘着力の背景 | 〈戦時中でも雑誌を出し続けたかった人々〉本文 |
同一の事項でも、集計主体と年次によって数値が異なる。「同時代値」は1945〜49年に発表されたもの、「後年再集計」はそれ以降に確定したもの。
| 分類 | 事項 | 数値 | 集計主体・年次 | 種別 |
|---|---|---|---|---|
| 空襲 | 東京・同 負傷者/罹災者/焼失家屋 | 約15万人/約300万人/約85万戸 | 東京大空襲・戦災資料センター | 後年再集計 |
| 引揚・復員 | 終戦時の海外在留邦人(当時人口の約1割) | 約 660 万人 | 厚生省 | 後年再集計 |
| 引揚・復員 | 引揚者総数(軍人軍属約310万+民間約318万) | 約 629 万人 | 厚生省まとめ/1976年末 6,290,702人 | 後年再集計 |
| 引揚・復員 | 地域別の邦人:満洲/大連(関東州)/朝鮮残留 | 約100万人/約20万人/約85万人 | 厚生省 | 後年再集計 |
| 引揚・復員 | 終戦時の陸軍総兵力(うち内地約238万8,000人) | 約 547 万人 | 復員関係資料 | 同時代値 |
| 引揚・復員 | 終戦時の海軍総兵力(うち内地約197万2,000人) | 約 242 万人 | 復員関係資料 | 同時代値 |
| 引揚・復員 | 1947年12月31日までに復員・引揚を完了した人数 | 624 万人 | 厚生省 | 後年再集計 |
| 引揚・復員 | シベリア抑留者 | 約 57万5,000 人 | 厚生労働省推計 | 後年再集計 |
| 引揚・復員 | ソ連軍の捕虜総数(別資料) | 611,237 人 | 別系統の資料 | 諸説 |
| 動員 | 終戦時の兵力(1930年比:陸軍約25倍・海軍約27倍) | 陸軍 約547万2,000人/海軍 約241万7,000人 | 復員関係資料 | 同時代値 |
| 動員 | 学徒勤労動員された生徒数 | 340 万人超 | 奈良県立図書情報館 | 後年再集計 |
| 動員 | 女子挺身隊(1944年2月 全国約16万人) | 終戦時 47 万人 | 『山川日本史小辞典』 | 後年再集計 |
| 経済 | 国富喪失額(終戦時総資産の約26%相当) | 4兆2,400 億円(昭和23年価格) | 経済安定本部1949・附録「国富被害一括表」 | 同時代値 |
| 経済 | 国富喪失額(別の引用値・全体の約25%) | 約 653 億円(終戦時価格) | 大林組百年史 | 諸説 |
| 経済 | 消費者物価指数の上昇(1945年10月〜1949年4月/3年6か月) | 約 100 倍 | 公定価格ベース | 後年再集計 |
| 経済 | 卸売物価指数の上昇率 1945/1946/1947年 | 6.5%/51.6%/17.0% | 小黒一正・服部孝洋推計(一橋大学) | 後年再集計 |
| 経済 | 闇米の公定価格に対する倍率(1945年10月・北九州の例) | 最大 49 倍 | 各種調査 | 同時代値 |
| 経済 | 生産水準の回復:鉱工業生産/実質GNP | 1950年10月/1951年度に戦前水準 | 大林組百年史 | 後年再集計 |
| 物的被害 | 戦災で失った住居家屋 | 約 220 万戸 | 大林組百年史 | 後年再集計 |
| 物的被害 | 住宅戸数の減少(強制疎開を含む) | 約1,400万戸 → 1,135万戸 | 大林組百年史 | 後年再集計 |
| 物的被害 | 保有船舶(開戦時は世界第3位) | 約630万トン → 約150万トン | 日本郵船歴史博物館 | 後年再集計 |
| 物的被害 | 船舶の喪失総計と被害額 | 15,518 隻/約 65.6 億円 | 経済安定本部1949 | 同時代値 |
| 食糧・生活 | 日本人の平均摂取カロリー(1946年) | 1,903 kcal | 飢餓状態とされた水準 | 同時代値 |
| 食糧・生活 | 主要食糧の配給基準(遅配・欠配が常態化) | 1日 2合3勺 | 配給制度 | 同時代値 |
| 食糧・生活 | 米生産量 1950年/1967年 | 938 万トン/1,445 万トン | 農林水産省 | 後年再集計 |
| 食糧・生活 | 戦災孤児:孤児総数/うち戦災孤児/うち引揚孤児 | 123,511/28,248/11,351 人 | 厚生省児童局 全国孤児一斉調査(1948-02-01現在・沖縄除く) | 同時代値 |
| 領土・人口 | 旧日本領土のうち失った割合(朝鮮・台湾・南樺太・南洋諸島等) | 約 44% | サンフランシスコ平和条約関連 | 後年再集計 |
| 領土・人口 | 在外財産の喪失額 | 約 237 億ドル(3,794億9,900万円) | 外務省資料ほか | 後年再集計 |
| 領土・人口 | 賠償:フィリピン/ビルマ/インドネシア/ベトナム | 5億5,000万/2億/2億2,308万/3,900万 ドル | 外務省 | 後年再集計 |
| 領土・人口 | 終戦直後の総人口 | 約 7,200 万人 | 総務省統計局 | 後年再集計 |
| 領土・人口 | 1945〜49年の人口増加率と1950年の総人口 | 年平均 3.2%/8,400 万人 | 総務省統計局・国土交通省 | 後年再集計 |
| 領土・人口 | 1945年の国勢調査 | 戦況を理由に中止 | 昭和20年・21年人口調査で代替 | 同時代値 |