戦時中に雑誌を出し続けるのは至難の技であった。
1938年7月には新聞雑誌の用紙統制が始まり、1942年末には4割減という状況であった。紙が配給されないので雑誌が刷れない。あるいは第三種郵便物(当局の認可を受けた定期発行される新聞・雑誌を割安で発送できる制度)の引受が停止され、印刷しても送れないといったこともあった。
1944年には追い討ちをかけるように「出版企業整備」によって、雑誌の統廃合が行なわれた。よく似た内容の雑誌をまとめ、国策遂行に貢献できないような雑誌は廃刊という内容だ。敗戦直前になると空襲で印刷所が焼けてしまい、廃刊に際し読者に挨拶すらできない雑誌も普通にあった。
それでも雑誌を出そうとした人がいた。刀、テニス、短歌、将棋など、全く異なる分野で、ちょっと想像できないくらいに奮闘する人々がいた。
続けられなかった人々と庭球は永遠だと宣言した人
雑誌はどのように消えていったのか。
栗原彦三郎は『日本刀及日本趣味』昭和20年3月号で、空襲による「大火災にて印刷所焼失」し、人員も「徴用されし者疎開せる者」で足らず、「第三種郵便物は度々引受を停止」されることが度々で、「本号限り無期休刊」すると読者に告げた。
『日本刀及日本趣味 10(3) (https://dl.ndl.go.jp/pid/1530921/)』
大政翼賛会の傘下にある農事振興会が発行する『村と農政』の編集者は、1945年2月に「度重なる空襲に本部は無事。敢闘を誓ひつつ、諸兄の御健闘を祈る」と読者に呼びかけたが、3月には「本部もついに四月十四日未明の空襲に全焼した。吾々も焦土から起ちあがり新なる目標に出発する」と報告した。3月号に4月の空襲のことが書かれているのは遅配が原因だ。4月号で「安全な場所で号令する者、厳しい現実に面を背ける者、妨害者、彼等こそ敵弾に当り焼き失せよ。祖国を清めよ。食糧増産の同志諸君、敗北は醜い。頭を真っ直ぐにあげて前進しよう」と読みようによっては政権を批判ともとれることを書き読者を励ましたが、これを最後に廃刊してしまった。
農事振興会は農商省内で運営されていたが、それでも読者に別れを告げられなかった。
『村と農政(https://dl.ndl.go.jp/pid/1867244)』
『日本庭球』は1943年12月号で廃刊した。
発行者の針重敬喜は天狗倶楽部のメンバーで、バンカラの押川春浪と親しい。もちろん本人もバンカラだ。バンカラとは明治時代のヤバい奴らで、愛国心が強すぎるため時には国に喧嘩を売り付けることも辞さないといった人々である。
廃刊に際して針重は「支那事変となり、大東亜戦争となつて、テニスどころではない」としながらも、
- テニスの効能を述べ立てる段には何の競技にも負けず、どの運動競技よりも心身の為めにはテニスは一番よい
- 庭球によつて心身を練へられた多数の若者が、今第一線に立つて敵米英と敢闘を続けて居る
- 若者の心魂には筋金が入つて居る筈だ
- 庭球によつて錬へられた強靱なる精神力と体力とが脈絡として動いて居る筈だ
- (庭球)は今後共我が国に於ても一層広く深く行はれなければならぬ、心身両面を養ふ至上のものだ
と、テニスの良さを怒涛の如く連呼、その上で「日本庭球」は滅んでも、日本の庭球が滅びることはないと幾度も書いた。
- 雜誌日本庭球は滅びても、日本庭球が滅びる時は断じて無い
- 日本庭球と云ふ雑誌は無くなつたが、庭球と云ふものは、決して此の世から亡くなつたのではなく、今後共我が国に於ても一層広く深く行はれなければならぬ
- 日本庭球は滅びても庭球は断じて滅びない
- 日本庭球は滅びても、日本の庭球は滅びる時はあるまい
針重は内心では、雑誌の廃刊に納得していなかったのではないか。ちなみに押川春浪も野球有害論がきっかけで新渡戸稲造を罵倒して、雑誌社を退社している。天狗倶楽部の面々が生きていれば、針重敬喜ももっとあからさまにブチギレた可能性がある。
『日本庭球(https://dl.ndl.go.jp/pid/1518082/)』
休刊を撤回した珍しいケースもある。『臨牀歯科』だ。
『臨牀歯科』は歯科商店の森田歯科商店が業界からの要望に応えて創刊したもので、当初は無料で配布されていた。編集責任者は若き歯科医の奈良隆之助、経済学部を卒業した経営担当の津下敏夫、森田歯科商店の長谷川俊夫と森田二郎らが発行に携わっていた。発行当初は商店の宣伝雑誌くらいにしか思われなかったが、二、三回と発行するうち学術雑誌として歯科医学会から評価されるようになった。検閲にひっかかると、津下が出ていき特高に殴られた。津下は後年この時期を思い出し、「もともと好きな分野で、学生生活の延長のような気持で青春を謳歌する幸せな時代」だったと語っている。
この雑誌は1943年の7月号で9月号で休刊を宣言した。「国家総力戦としての苛烈極まりない現在の戦争形態が、刻一刻と、この種の定期刊行物を」許さなくなってきている。それならば当局の指示を待つよりは、自発的に休刊しようという判断だった。ところが9月号では「続刊通知」を出した。業界関係者の尽力で、雑誌の継続が可能となったのである。
ただしこれも長くは続かない。1944年3月に「出版企業整備」によって、『臨牀歯科』は『歯科公報』と併合することとなった。
『臨牀歯科(https://dl.ndl.go.jp/pid/1866464)』
土屋文明 VS アメリカ
なんとか雑誌を存続させようと、粘りに粘ったのが土屋文明である。
「アララギ」1944年の12月号の発送は遅れに遅れ、読者に届いたのは1945年の3月だった。これを最後に、『アララギ』は事実上の休刊に追い込まれた。会員たちから問い合わせが来ていたが、なんとか雑誌を存続させようと奔走する発行人の土屋には「返信する余裕」などなかった。敗戦後、ようやく「アララギ」を出すことができたので読者に戦中のことを「取まとめて報告」した。
冒頭で「昨年十月号あたりから印刷所の事情で遅刊に遅刊を重ね、三月になつて辛うじて十二月号が出来上つたわけであるが、その辺の事情は説明する迄もなく、諸君に諒解していただけることと思ふ」としており、当時としては雑誌を出すのが難しいことなど、常識であったことが伺える。
戦中も土屋は、なんとか「アララギ」を発行しようとしたが、不運の連続だった。
- 1944年の12月に雑誌の印刷は終わったが4月に入っても発送出来なかった
- 3月20日に「アララギ」の発行所を3月25日までに疎開させろと通達がきた
- 本格的な疎開は難しかったので、近隣に新発行所を借入れて、会員少数で移転を実施
- 非常用に用意していた印刷用紙は印刷所の東京証券に搬入
- 4月13日の空襲で印刷所東京証券が全焼
- 印刷済みの一月号は焼失
- 遅刊を取返すため二、三月合併号を編集し、原稿を印刷所に預けていたが、そちらもごく一部分を除いて同日焼失
- もちろん非常用の印刷用紙も焼けた
- 青磁社の鉄田敬止に協力してもらい8頁程度の報告号を印刷
- 豊橋のアララギ会員が印刷所を使っていいと申し出てくれる
- 4-7月の合併号を出すために、東京にいる会員と自分の子供たちまで総動員で編集を急いだ
- 5月27日には原稿を豊橋に携行する予定であった
- 5月25日の空襲で「アララギ」の発行所は焼失
- 会員たちの家も焼けた
- 斎藤茂吉の住宅と病院が焼けた
- 茂吉の蔵書が焼けたのがやけに悲しかった
- 土屋の家も消滅
- 発行所の器材は全滅
- 会員たちの好意で保有していた歌稿用紙、発送資材なども焼失
- 発行所の史料的なもの、編集参考用の図書も焼失。
- 流石の土屋も長女がいる群馬に疎開
- しかし土屋は諦めない
- 豊橋の印刷所から雑誌を刊行するため奔走
- 豊橋の印刷所は6月20日前後に焼失
- 会員たちの努力で、仙台市笹気印刷所で雑誌の刊行ができそうになった
- ところが7月9日に笹気印刷所が焼失
- まだまだ土屋は諦めない
- 札幌、また山形県左沢などの印刷所と連絡を続ける
- 8月15日、戦争が終わった
印刷しては焼失で、最早アメリカ VS 土屋文明といった様相だ。普通の人間なら東京の印刷所が焼けた時点で諦める。ただし土屋は101歳まで生きた男だ。そのスタミナと粘着力は圧倒的なのである。
しかし読者は厳しい。12月号からの長い休刊にイライラした会員たちは、土屋へ「無責任を詰問する手厳しい通信」を送り付けた。そんな会員たちに「休刊の事情は正に右の如くであつた」と説明したというわけだ。
文末で土屋は「責任を戦禍にのみなすりつけようとも思はない」としているが、普通に考えたら戦禍が原因だろう、落ち着け土屋。
『アララギ(https://dl.ndl.go.jp/pid/2385774)』
廃刊記念号を豪華版にした男
『将棋月報』は、長野県松本市の将棋ファン向けに発行された『風雲天地新報』に由来する。創刊は大正11年3月、毎月一回ペラ紙に将棋大会の通知や成績、余白に詰将棋を掲載し無料配付した。翌年には県外に広がり、毎月2回定価6銭で指将棋や随筆なども掲載し、各地の将棋会所や有名棋士に配付されるようになった。
やがて『風雲天地新報』は成長し「純然たるアマチュアによる将棋雑誌」の『将棋月報』となった。読者層は厚く転載詰将棋作家を多く世に出した素晴らしい雑誌である……と書いたが、私は詰将棋に一切興味がない。しかしこの雑誌は相当にしぶとく格好が良すぎるので紹介したい。
1943年4月号を受け取った読者の亀井生は、雑誌が薄くなることは予期していたが「あまり薄いので一寸落胆」した。「小活字使用」やギチギチのレイアウトにし、内容の充実を図ったことは評価するが、詰将棋の雑誌にもかかわらず詰将棋がひとつも掲載されていないと苦情を入れている。それに対して編集者の阿部吉蔵は本来は「休ませて頂」くつもりであったが、「無理ながら徹夜業の末、休むよりましと発行」したと釈明した。
阿部は根性の入った男で、雑誌の存続のため「組版の模様が替り幅を拡げ収容力を増」するなど努力を続け、「万難を排しても読者の好意に報ゆる」と鼻息が荒い。しかしすでに読者や仲間は厳しい状況を察しており、「我々の雑誌にはもう表紙など要らない。製本も要らない。又解説用の図面も要らない」から、「新聞紙形式の物でもよいから休刊と云ふ怖ろしい嵐から逃れ」てくれというような提案が続出した。
1944年一月号で読者は「(企業・雑誌統合)整備の嵐の中に月報誌は泰然として発行を続けてゐる。社の御苦労が思ひやられる」と労い、「明けて昭和十九年、此の年こそ必ず米英を擊つ年である。将棋人は強いぞ」と励ましたが、阿部は現実を見ていて、次のような小話を掲載している。
或る対話
読者「出版界もいよいよ新体制になりますが月報は何うなるでせう」
記者「御承知の様に(紙の)配給割当量の減少。労力不足、発行部数少なき為の経費倒れ、此の三つの隘路(あいろ)を打開しない限り続刊は不可能な状態になりました」
読者「そうでしょうね」
記者「国策に添ふ為なら廃刊も止むを得ませんが、二十年の歴史の幕を閉じるのは如何にも残念なので、何んとか違つた形式で形ばかりでも残して行き度いと思つて居ります」
読者「ではこんな工合に行きませんか。一番簡単な方法として今後都合の悪い時はドシドシ休刊するんですね。」
記者「それでは読者が承知しないでしょう。誌代を返せとか何んとか云つて」
読者「そういふ人は止むを得ませんから止めて貰ふんですね、こうしなければやつて行けないのだからそれでも不平を言はないで購読を続けて行く人が真の後援者として残る訳ですね。」
記者「そういふ人が百人あれば充分やつて行ける確信がありますが果たして何人あるでせうか」
「何人あるでせうか」でぶった切られているところに、なんともいえない含みが感じられる。
そして翌月号、阿部は「遂ひに来るべきものが来たに過ぎませんが落胆は人一倍であります」と書き記す。いきなりの廃刊だ。
しかしただでは倒れない。用紙統制で紙の配給は減っていたが、紙を密かに温存させていた。阿部は最後なのだからと、ページを増やした豪華版を読者へのはなむけとしようと、「二ケ月も以前より」準備を進めていたのである。国からすれば、紙を減らせって言ってるのに、なにしてるんだお前といったところであろう。
しかし投書家や関係者に連絡を入れたものの、戦争の影響で所在不明の者も多かった。返事がなく「案外の淋しさに日を空しく過」すこととなった。温存させたとはいえ、用紙も十分ではない。今できることは限られているが阿部は「打算無視の大奮発」でページ数を増やした豪華版の最終特大号を世に出した。
『御別れ特集』として、前田三桂による「大橋宗与」の『将棋筌』もつけた。『将棋筌』がなにかはよく分からないし、詰将棋としての質が悪いというような記述も見掛けたが、当時の詰将棋が好きな人は喜んだのではないか?
廃刊の連絡を受けて動揺し、存続を訴えたものは多かった。
内藤武雄は、「以前の天地新報位で十分です。新聞紙一枚でもよいから出せないものでしょうか。」といい、桑名省三は「隔月位に費用は有志の持ち寄りにて同人雑誌を発行しては如何にや不及ながら御支援可仕何とか御考慮を煩し度く候何分に」と提案した。近藤安輝は「非売品としてつまり財団法人式に極めて同好者のみに、せめて詰将棋だけでも第三部位迄二ケ月でも三ケ月でも出来得る程度にして、パンフレツトとして存続御願致したきものです。但し此場合適宜名称変えの上、初号に前解答の発表を登載せられん事を切望(一冊に付五十銭か一円位のつもりで御損をかけぬつもりです)」と細かい注文付きで存続を訴えた。
宮本弓彦は、「月報は終刊したが、将棋社長は健在だから、無形の雑誌月報は今なほ、れんめんたるわけだ。なにかあらう。」と阿部と読者を鼓舞した。
残念なことに阿部は東京に滞在中に空襲にあい、この世を去った。戦争をするとこういうことが起きてしまう。私は将棋を知らず、あくまで『将棋月報』の短文から判断したにすぎないが、阿部という人は一種の奇傑だと思う。阿部は「うちの印刷所は月報を休んだ月の方が黒字なんですよ」と言いながら、二十三年もの長い間、「将棋月報」を発行し続けた。
『将棋月報(https://dl.ndl.go.jp/pid/1867283)』
意志は接続されていく
敗戦を経て消えたままの雑誌、復活する雑誌があった。
官製の『村と農政』は残らなかった。そこには意志がなかった。
土屋文明の『アララギ』は当然のように続いた。
『日本刀及日本趣味』は廃刊し、GHQの命令で日本刀の製造も禁止された。鍛刀の音は消えた。しかし栗原は諦めなかった。郷里にあって日本刀の復興を尽した。昭和27年にサンフランシスコ平和条約が締結し、栗原は講和記念刀300口の製作許可を取り付けた。雑誌は戻らなかったが、鍛刀の音は再び響き出した。
『日本庭球』の針重敬喜は、疎開していた故郷の米沢で、敗戦直後の9月には野球・庭球・スキー等の関係者を集め「スポーツ連盟」を結成した。しかし運動場やテニスコートは豆畑や菜園になり荒れ果てて使用できる状態ではなく、食料難から市民にスポーツを楽しむ余力はなかった。連盟は一年余で消滅した。いくらなんでも焦りすぎである。
ただし彼が言い張ったように、庭球は消滅しなかった。針重は日本庭球協会の顧問として庭球界の重鎮として戦後も活動を続け、没するまで周囲に人と酒とが集まる賑やかな一生を送った。
「将棋月報」の阿部はいなくなり、宮本弓彦の願いはかなわぬものになったかのように思えたが、「将棋月報」の読者たちは生きていた。
モンゴルから「将棋月報」に投書をしていた鶴田諸兄は、なんとか日本に帰り着き、愛知県警に復職し働きながら「紳棋会報」を創刊した。第1号はワラ半紙一枚にガリ版で両面印刷したもので、まさに「風雲天地新報」の再来だ。この雑誌は発展し、今も続く「詰将棋パラダイス」となった。
「将棋月報」読者の亀井生こと亀井昭造は、棋史の編纂に一生を捧げることを目的にして、大量の資料を集めていたが、盲腸手術が原因で帰らぬ人となってしまった。亀井の友人は資料の散逸を恐れたが、これまた「将棋月報」読者の松井雪山が譲り受けることとなった。読者たちは詰将棋の世界で気を吐いた。まさに「無形の雑誌月報は今なほ、れんめんたる」もので、まさに「なにかあらう」だった。
戦後『臨牀歯科』の奈良は故郷の秋田で開業し、森田二郎と長谷川俊夫は森田歯科商店で活躍した。津下は『臨牀歯科』を引き継がないかと打診された。青春時代を忘れることはできず、奥さんからも「冒険好きなのだから一人でやってみるのも面白いじゃありませんか。たとえ荷車を引いてもついて行きます。今日から一国一城の主になったのだから頑張って」と励まされたこともあって、この仕事を受けた。復刊一号の『臨牀歯科』もまた、わら半紙に刷られた。
長い時間が過ぎ、昭和56年に株式会社モリタの記念事業として、戦前に発行された『臨牀歯科』の復刻版が作成されることとなった。森田、奈良、津下、長谷川が久しぶりに集結し、編集会議と称して昔のことを語りあった。編集会議の最終日、浄瑠璃寺を散歩した。奈良が「お互いに年をとった。写真をしっかり撮っておこう」と言うので写真を撮った。
翌年の三月に奈良は永眠した。長谷川は『臨牀歯科』の復刻版を霊前に供え、哀悼の弔辞を読んだ。