私の平和学習

2026-05-15

戦時中に短波ラジオを聞いてた人たち

戦時中の青春、バリバリ左翼とバリバリ右翼が仲良く違法行為

1941年12月の電波管制により、戦時中は民間の短波受信機所持は厳しく制限されていた。短波放送を聴くと、これはスパイ行為だと怒られ、短波ラジオは押収された。短波受信する機能を潰して返却というケースもあったようだ。思想的な問題を持つ場合は、拷問などもされた。

だから敗戦後、短波ラジオを自由に組み立て平和を実感した人がいた。

余談ですが、太平洋戦争が終って間もない頃、神田の小川町から須田町界隈の歩道には電気部品専門の闇市ができました。文字どおり路上にありとあらゆる電気部品が並べられていたのです。これがいまの秋葉原の前身だったのかどうか定かではありませんが、とにかく米軍の無線機なども売られていましたし旧日本軍が敗戦まぎわに開発したとされる「ソラ」などの超高周波真空管も安い値段で買うことができました。こういうジャンクを解体再生して戦時中は持っているだけで間違いなくスパイとして処刑されかねなかった“幻の短波ラジオ”を自由に組立てて平和の到来を実感したことを思い出します。

『通信工業』31(1)(353),通信機械工業会,1991-01. 国立国会図書館デジタルコレクション 国立国会図書館デジタルコレクション ↗

聴くなと言われたら聴きたくなるのが人情で、昭和十九年の山形県天童市では、短波ラジオを聴く秘密の催しが開催されていた。参加者は以下の通りである。

帝国秘密探偵社 編『大衆人事録』第22版 東日本篇,帝国秘密探偵社,1962. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3012267

バリバリ右翼の翼賛壮年団長と、労働運動や綴り方運動で捕まった左翼が仲良くしているのは不思議だが、彼らは「大本営発表の欺瞞」を感じており、「本当のことが知りたいという強い欲求」を持っていた。これを抑えることができず、深夜こっそりと海老名の家に集まり、短波ラジオで海外の放送を聴いていたのである。

放送を聴くと、戦局の推移が手に取るように分かる。「日に日に敗色を濃くしていく状況が、きわめて説得力のある調子で私たちに告げられ」た。

放送を聴いた後は、興奮を抑えながら、四人は様々なことを語り合った。戦時中にあっても、このような青春の形があった。

しかしこの活動は長くは続かなかった。東北精密工場で、物資の横流しが問題となり、新関正吾の家が捜査をうけたのである。

悪いことに新関は日記魔だった。もちろん短波ラジオについても詳細に書かれている。四人は不安で仕方がない。

三森言融真は別にして、海老名や新関は特高警察に捕えられたことがある。ようするに思想的な問題を持つ人物だ。斎藤も常日頃から、敵国の英語を教える奴だと学校で軽視されている。ラジオを押収され、これから気を付けろよでは済まない可能性が高い。

警察から憲兵に伝えられ「私たちは、強制労働、リンチなどさまざまなしうちをうけるに違いない。恐怖におののきながら、私たちは、あきらめと絶望の思いで毎日を送り迎えしていた」のだが、呼び出しはなかった。かわりに天童に米軍機グラマンが飛んでくるようになり、そのうち八月十五日がやってきて戦争は終わってしまった。

敗戦後、呼び出されなかった理由が判明した。

日記魔の新関は、天童警察署にいたMという特高巡査との会話も詳細に記録していた。内容は東亜連盟の石原莞爾将軍に関する極秘情報である。極秘情報をもらすのは、天童警察署としては大きな失態だ。どうしても憲兵隊には知られたくない。そのため警察は新関日記を証拠として、四人を召喚することができなかった。新関の記録癖が良い方向に働いたのである。

この事件は内部で処理された。Mは特高をおろされ、僻遠の小国署へ左遷された。この話にも後日談がある。左遷されたMは不運を歎いていたが、敗戦となり特高警察官は占領軍の命令で追放となった。左遷され降格したは追放をまぬがれ、停年まで勤め上げることができた。

誰も不幸になっていないので、めでたしめでたしとしたいところだが、残念なことがひとつあった。この事件をきっかけに、新関が好きな日記を止めてしまったのである。

綴り方に熱心なことからも分かるように、新関は日記を書くことが異常に好きだった。今からは想像ができないが、その新関が日記を断念するほどに、トラウマを与える事件であった。友人の北村は新関が「戦後の天童の動きを日記に書いてくれていたら、すばらしく貴重な資料」になったはずだとこれを惜しんだ。

斎藤一郎教授追悼録刊行会 編『回想の斎藤一郎』,斎藤菊子,1982.12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12195090