1946年、敗戦で印刷事情も悪く、出版をすることは難しかった。それでも本や雑誌を出した人がいた。
山本光雄の『法律』が出版されるまで
山本光雄の『プラトン 法律 第1巻』は、昭和21年10月三十日に第一版が発行された。
山本がプラトンの『法律』全12巻を翻訳し始めたのは、太平洋戦争が始まるひと月前のことだった。伊藤述史の紹介で雑誌「日本学研究」に掲載され、第二巻の終わりまで連載は続いた。
第三巻まで翻訳が終わると、出版することとなった。近藤書店へ原稿を渡したのは、十九年の暮であった。
翌年、上州の山村に疎開している家族の元を訪れ再会を喜んでいると、応召の電報が届いた。二十年の三月八日のことだった。十日に入隊しろというので、大急ぎで用意をし、村人の万歳の声に送られて遠く九州へと旅立つた。もう生きては帰れないだろうと思い、東京の街頭から恩師の出隆先生に電話をかけ、後のことを託した。
やがて近藤書店から校正刷が出たが、戦時中のことですぐに出版とはならなかった。そのため校正刷りの一部と三巻以後の訳稿を、田中美知太郎に保管してもらうことになった。ところがである。敵機の爆撃にあって、田中は大火傷を負い、その家もろとも校正刷と訳稿は焼け失せた。印刷所も近藤書店も災禍に見舞われたが、校正刷の一部と同書店の大井さんがとった訳註の写しだけは難を免れた。
そして今年の十月、山本は生きて東京の焼土を踏んだ。近藤書店主人に会うと、今のような時代だからこそ、『法律』の飜訳を世に送り出さねばならないと力説した。山本も思いは同じであった。奥さんの病気と身心の疲労とが癒えると、直ちに筆をとり不足の部分を補い、ようやく完結させることができた。
翻訳を始めた頃と比べると、今は全く隔世の感がある。しかし時代が変わっても、山本の思いは、今もまだ変らない。全ての敎師、全ての法律家と政治家に『法律』を読んでもらいたい。いや今回翻訳が完成した部分は、日本国民全員に読んでもらいたい……というものであった。
ひとつ変ったことがある。読んでもらう目的だ。戦時中は軍国主義を否定し、極端なる独裁制の批判するために翻訳作業を続けた。今は平和主義の肯定と、極端なる民主制の批判のため、読んでもらいたいと考えている。
そんな思いは別にしたとしても、『法律』は読む者に教えと戒めと慰めとを与えてくれるはずだ。『法律』のなにが良いのか、それらを一々列挙するのはもどかしい。完成した本を前にして、今はただ「とって読め」と言えば、もうそれで事足りる……そんなことを山本は思うのである。
そして数年以上に渡った訳業が、それを必要とする時に、日の目を見る。これに山本は、人知れぬ喜びを感じていた。
しかし、こうも思った。翻訳を始めてから今までに、日本では誰もが終生忘れ得ないようなことが起きた。山本にも、長い年月の間に様々の出来事が起きた。実父の死、岳父の逝去、飜訳について多く助けてもらった田中美知太郎の負傷、若い友人達の戦死、そして最後に祖国の敗戦、国の為に死すべくして死ななかつたばかりか、身に一つの傷さへ受けなかった自分、この拾った余生を何に捧ぐべきか、山本は知つていた。
林太郎の帰還
林太郎の「物象の新研究」は昭和21年5月20日に発行された。
作者の林は、理研で有機化学の研究を続けながら、女子高等師範学校で科学を教えていた。新制物象の教科書制定のことにも携わりつつ、旺文社からの依頼で、「物象の新研究」の執筆を行なった。原稿がほぼ完成に近い状態になったところで、応召ということになった。
原稿には一部、未整理のところがあり、これは山本四郎に託された。林とは大学の同窓で親友でもあるが、山本は教育畑の人間ではない。全く勝手が違う仕事で、当惑するしかなかった。しかし多くの少年少女がこの本を持っていると聞かされ、旺文社にも協力してもらい、困難な作業を進め、なんとか世に送り出すことができた。
山本は少年少女の科学性を培い、やがて我が国の科学技術への良果となることを期待した。しかし門外漢の悲しさで、整理が徹底していないところも多い。山本は林が帰ってくると信じていた。だから一切は親友の帰還後の、訂正に譲ることにした。
戦地からの帰りを待つ者は多かった。帰る者もいれば、帰らない者もいた。
林はというと……無事に帰ってきた。
昭和22年5月11日、大学の同級生だった藤田考吉の葬式に、林と山本が参列したと、同じく同窓の山路閑古が書き残している。こうして二人は再会したが、そこで彼らが何を話したのかは不明だ。
(『古川柳』1(5),日本古川柳学会,1947-08. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1832150)
林は山本の訂正を引き継ぎ、昭和25年に「物象の新研究」を「化学の研究」と改め出版した。昭和27年には全面的改訂を行い、この本が今日あるのは、山本四郎の助力と、援助をしてくれた旺文社によるものだと、前書きに記した。
海と空と畑
海洋気象学会の発行していた『海と空』が、昭和21年10月5日に臨時発行された。
昭和20年3月17日、神戸大空襲で庁舎は炎に包まれた。続く6月5日の空襲では、庁舎の三分の一と官舎を失った。海洋気象学会の倉庫と在庫出版物は燃え、「海と空」印刷担当の田中印刷所も破壊された。
そして三名の殉職者が出た。
在庫出版物と、関係書類は全て焼け、会員に大きな迷惑をかけてしまったが、今後の努力と誠意で、その幾分かは償えるはずだ。しかし殉職者は帰らない。彼らを思い、歎きを繰り返すことしかできない。
終戦はこの国をかろうじて救った。しかし、それだけであった。秩序は乱れ、生活は困難を極め、阪神地は印刷能力を奪われた。それでも海洋気象学会の人々は、なすべきことをなすことにした。長い歴史を持つ機関誌は出さなければならない。
彼らは欠員を補い、印刷所の復旧に努めた。殉職した同僚たちの霊を慰めるためにも、会員たちの後援を得て出来得る限りの復興をするつもりであった。こうして一年有余の休刊後、今ようやく再刊となったのである。
完成したのは、実に貧素な雑誌である。これを校正しながら、編集者は割れた庁舎の窓から外を見た。焼け跡にはバラックが点在して、庁舎の前には畑が作られている。編集委員と評議委員の一同も公務時間外は、元気一杯で農作業をしている。青い麦畑は麦秋となり、茄子やトマトの花が咲いた。これを眺めながら編集者は、本誌の復興も案外早いのではあるまいか、そんなことを考えた。
それでも出版するということ
敗戦後、戦時中にはおおっぴらに読めなかった書籍が書店に並び、客が殺到したという話を聞いたことがある。
<figure class="figure-image figure-image-fotolife" title="本を買う人々">[f:id:cocolog-nifty:20260519171111p:plain]<figcaption>本を買う人々</figcaption></figure>
(文化社 著『東京・一九四五年秋』,文化社,1946.4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1701475)
そして、新しい書籍や雑誌を作る人がいた。
この頃、よく「本は読みたいけれど高いから…」と、いう皆さん達の声を聞きます。またそれと共に書店の本棚の前に、むらがつて立ち読みしているお友達の姿を見うけます。蟻が甘いお砂糖に集るように読物をほしがる皆さん達の気持。そうしたヨイ子のために明るい楽しい本を一冊でも多く、しかも安いねだんで贈りたいと計画されたのがこの「わかば童話集」です。
わかば童話集 桑原杳 外5名 新延岡新聞社 昭和二一(一九四六)年
今では想像するのも難しいが、そういう時代があったのである。
